2008年11月10日(Mon)
オバマ氏と田母神氏、そしてわが日本。
驚いた。オバマ氏がアメリカ大統領になるとは。
1960年代にシドニー・ポワチエという黒人の俳優がいた。
彼の主演した「招かれざる客」や「夜の大走査線」等の映画でアメリカの人種差別の実態を知ったわたしには、黒人が大統領になるとは信じがたい出来事である。
40年程前には、アメリカの黒人は考えられない理由によって殺されていたのである。
そしてまた驚いた。田母神論文である。現職の自衛隊トップ航空幕僚長・田母神氏が「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」(毎日新聞11月1日掲載論文要旨)と述べていたのである。
この論文の背景になっている歴史観は珍しいものではない。
だが、自衛隊最高幹部とその多くの部下たちが、このような歴史観を共有し、任務に従事していたことに驚いたのである。
政府見解と異なり、文民統制の欠如があらわである。あるいは政府の中にも同調する人がいるのかもしれない。氏は「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と言う。だが、日本だけが清廉な国家だったわけでもなかろう。
オバマ大統領の実現によってアメリカは大きな歴史の課題を克服した。
しかし、田母神論文は過去の歴史を都合よく解釈しすぎているように見える。
問題は我が国がこれから何をなすかということだ。
解釈では課題を解決できない。
我が国による「極めて穏健な植民地統治」に感謝しろといわれてもアジアの人びとがあきれるだけだ。
さてこれからオバマ新大統領は我が国にいろいろと要求してくるだろう。
ブッシュ政権時代のように唯々諾々と従ってはいけまい。
世界の安定に寄与する道を双方向的に議論する姿勢をみせてもらいたい。
それこそが、田母神氏のいう東京裁判の「マインドコントロールから解放され」るということだろう。
ところで我が国の政府首脳の目下の急務は田母神論文どころではなく、定額減税ならぬ、定額給付をどうするかということらしい。
金融危機に対処するために総選挙を回避したという事情からすると、なんだかのんびりしているようだが、お願いがある、給付されるクーポン券を税の納付にも使用できるようにしてください。
1960年代にシドニー・ポワチエという黒人の俳優がいた。
彼の主演した「招かれざる客」や「夜の大走査線」等の映画でアメリカの人種差別の実態を知ったわたしには、黒人が大統領になるとは信じがたい出来事である。
40年程前には、アメリカの黒人は考えられない理由によって殺されていたのである。
そしてまた驚いた。田母神論文である。現職の自衛隊トップ航空幕僚長・田母神氏が「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」(毎日新聞11月1日掲載論文要旨)と述べていたのである。
この論文の背景になっている歴史観は珍しいものではない。
だが、自衛隊最高幹部とその多くの部下たちが、このような歴史観を共有し、任務に従事していたことに驚いたのである。
政府見解と異なり、文民統制の欠如があらわである。あるいは政府の中にも同調する人がいるのかもしれない。氏は「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と言う。だが、日本だけが清廉な国家だったわけでもなかろう。
オバマ大統領の実現によってアメリカは大きな歴史の課題を克服した。
しかし、田母神論文は過去の歴史を都合よく解釈しすぎているように見える。
問題は我が国がこれから何をなすかということだ。
解釈では課題を解決できない。
我が国による「極めて穏健な植民地統治」に感謝しろといわれてもアジアの人びとがあきれるだけだ。
さてこれからオバマ新大統領は我が国にいろいろと要求してくるだろう。
ブッシュ政権時代のように唯々諾々と従ってはいけまい。
世界の安定に寄与する道を双方向的に議論する姿勢をみせてもらいたい。
それこそが、田母神氏のいう東京裁判の「マインドコントロールから解放され」るということだろう。
ところで我が国の政府首脳の目下の急務は田母神論文どころではなく、定額減税ならぬ、定額給付をどうするかということらしい。
金融危機に対処するために総選挙を回避したという事情からすると、なんだかのんびりしているようだが、お願いがある、給付されるクーポン券を税の納付にも使用できるようにしてください。
2008年11月10日(Mon)
今月の聖語[平成二十年十一月]
平成二十年十一月の聖語をご紹介します。
=解説=「大善と大悪」(一二七五年文永十二年 聖寿五十四歳)
めでたいしるしやきざしである瑞相(ずいそう)・瑞兆(ずいちょう)は、どうでもよい小事にはおこらず、大事におこる。大事には小瑞(しょうずい)はなく、大瑞(だいずい)があらわれるのである。
一方、小を捨てて大に就くべきであり、小を忍びずば大謀(だいぼう)は無理なこと。大悪の興起(こうき)は大善興起の大瑞と思うべきである。大悪の根源、法華経誹謗(ひぼう)の大謗法(だいほうぼう)が国土に充満している事実は、大正法たる法華経信仰が流布する大瑞相でありその明証(みょうしょう)である。
「魔競わずは正法と知るべからず」なのだから、眼前の大悪は悲歎すべきではなく、逆に喜びである。「舞(まい)をも舞(まい)ぬべし、立(たち)て踊りぬべし」といって弾圧下の門弟を日蓮聖人は鼓舞するのであった。
=解説=「大善と大悪」(一二七五年文永十二年 聖寿五十四歳)
めでたいしるしやきざしである瑞相(ずいそう)・瑞兆(ずいちょう)は、どうでもよい小事にはおこらず、大事におこる。大事には小瑞(しょうずい)はなく、大瑞(だいずい)があらわれるのである。
一方、小を捨てて大に就くべきであり、小を忍びずば大謀(だいぼう)は無理なこと。大悪の興起(こうき)は大善興起の大瑞と思うべきである。大悪の根源、法華経誹謗(ひぼう)の大謗法(だいほうぼう)が国土に充満している事実は、大正法たる法華経信仰が流布する大瑞相でありその明証(みょうしょう)である。
「魔競わずは正法と知るべからず」なのだから、眼前の大悪は悲歎すべきではなく、逆に喜びである。「舞(まい)をも舞(まい)ぬべし、立(たち)て踊りぬべし」といって弾圧下の門弟を日蓮聖人は鼓舞するのであった。
2008年10月14日(Tue)
老病死のこと
先日、俳優の緒方拳(70)が亡くなり、続いて俳優・峰岸徹(65)が亡くなった。
どちらもテレビをとおしてこれまで身近に感じていた俳優だった。
とくに緒方は東京オリンピックの年に大河ドラマ「太閤記」で一躍有名になり、印象深い。
若いときからテレビで親しんでいた俳優が亡くなると、自分の運命を見せられているようで、寒々とした思いに襲われる。
人の老病死は言うまでもなく釈尊出家の原因となった。
だから、この問題は充分念頭にあった。
しかし若いときは言うまでもなく、四十代、五十代においても本当のところ、それは他人事だったのだと思う。
しかし、六十代になるや、老病死はまさに自分の問題となった。
前回述べたように、私は私小説作家・上林暁の作品に親しんでいる。
明治35年に高知県に生まれ、東大英文科を卒業し、出版社に勤めながら、作家になった。
学生時代の思い出で、「法華経の行者日蓮」の著者として私には馴染み深い姉崎正治博士にふれて、
「大学で一番英語のうまいのはドクターAでした。ドクターAは宗教の教授でしたが、図書館長をかねていました。彼の英語はなめらかで、ソフトでした。」(『ジョン・クレアの詩集』)
と書いている。その上林は早く妻を病気で失い、自身も脳卒中をわずらい、病と闘いながら多くの作品を仕上げているために、目をそむけたくなるような老病死の実態をことこまかく描いている。
これから、このような老病死を自ら体験しなければならないとは、これは大変なことだ、とおそまきながら震えているのだ。情けないことである。
明日15日は年金が支給され、後期高齢者医療費が天引きされるとのこと。
どうか余計な不安を与えないように、この国の関係機関は努力してもらいたい。
もちろん、宗教者がそのために努力しなければならないことはあたりまえである。
どちらもテレビをとおしてこれまで身近に感じていた俳優だった。
とくに緒方は東京オリンピックの年に大河ドラマ「太閤記」で一躍有名になり、印象深い。
若いときからテレビで親しんでいた俳優が亡くなると、自分の運命を見せられているようで、寒々とした思いに襲われる。
人の老病死は言うまでもなく釈尊出家の原因となった。
だから、この問題は充分念頭にあった。
しかし若いときは言うまでもなく、四十代、五十代においても本当のところ、それは他人事だったのだと思う。
しかし、六十代になるや、老病死はまさに自分の問題となった。
前回述べたように、私は私小説作家・上林暁の作品に親しんでいる。
明治35年に高知県に生まれ、東大英文科を卒業し、出版社に勤めながら、作家になった。
学生時代の思い出で、「法華経の行者日蓮」の著者として私には馴染み深い姉崎正治博士にふれて、
「大学で一番英語のうまいのはドクターAでした。ドクターAは宗教の教授でしたが、図書館長をかねていました。彼の英語はなめらかで、ソフトでした。」(『ジョン・クレアの詩集』)
と書いている。その上林は早く妻を病気で失い、自身も脳卒中をわずらい、病と闘いながら多くの作品を仕上げているために、目をそむけたくなるような老病死の実態をことこまかく描いている。
これから、このような老病死を自ら体験しなければならないとは、これは大変なことだ、とおそまきながら震えているのだ。情けないことである。
明日15日は年金が支給され、後期高齢者医療費が天引きされるとのこと。
どうか余計な不安を与えないように、この国の関係機関は努力してもらいたい。
もちろん、宗教者がそのために努力しなければならないことはあたりまえである。