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    <title>電栄寺</title>
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      <title>電栄寺</title>
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 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十三年四月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=257</link>
<description><![CDATA[平成二十三年四月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20110401-seigo201104.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝　生きる誓願　日蓮聖人御遺文『開目抄』文永九年（一二七二年聖寿五十一歳）<br />
　この聖語は、日蓮聖人の三大誓願の第一です。三大誓願は、建長五年（一二五三）四月二十八日、立教開宗の日から聖人を支え続けたものです。それは、私たちを支える三大誓願でもあることを意味します。<br />
　しかし残念なことに、聖人と全く同じではありません。それは、ピアノの演奏と似ています。ピアノは誰が弾いても決まった音が出ます。しかし、弾く人の技量や魂によって、響きが変わり、意味に深みが増すのです。<br />
　それでは聖人は、どのような信仰をもって、このような誓願を立てられたのでしょうか？　「柱」とは、建造物の中心となるものです。と言うことは、一切の世間の過去・現在・未来の三世にわたって、必要不可欠な人間として生きると言う誓願であります。それは「真実を求め至誠を捧げよう」と訳されています。真実を求め至誠を捧げるとは、自己を大切にすることです。それはやがて、他者を微笑ませ、自己を幸せに導きます。これはすべての命を活かしきることです。<br />
　この聖人の誓願の中に私たちは生きているのです。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=257</comments>
 <pubDate>Fri, 1 Apr 2011 16:03:21 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十三年三月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=256</link>
<description><![CDATA[平成二十三年三月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20110301-seigo201103.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「凡夫成仏の不思議」建治二年（一二七六年聖寿五十五歳）<br />
法華経の行者日蓮聖人は、法華経絶対を択一された法華経至上主義者であられる。その絶対の根拠は究極ただ一つ。法華経が、仏教の唯一で最大の目的である｢凡夫を仏に成し給う｣大法であるからであった。かかる法華経の秘妙さ絶妙さを日蓮聖人は｢法華経の不思議｣「法華経の御力」と言われ讃嘆されたのである。故に、法華経の文字、その全文、全文字の一字一字は、そのまま挙って仏のご本意・ご本懐すなわち衆生救済をあらわし告げるものである。つまりは、仏そのものであられる。要するに、肉眼・凡眼に見る黒い印字は、智慧の眼・慈しみの眼である仏眼には、変じてみ仏の本体・本質と映るのである。<br />
その一大変化変質、つまり凡夫成仏の大転換、転凡(てんぼん)成聖(じょうしょう)・転凡(てんぼん)入聖(にっしょう)の不思議さを日蓮聖人は言葉に尽くして説き明かされるのである。｢法華経の不思議もまた是の如し。凡夫を仏に成し給う。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり、山(やま)の芋(いも)は鰻(うなぎ)となる。世間の不思議以(もっ)て是(かく)の如し。何(いか)に況(いわん)や法華経の御力をや｣と。蕪は野菜、鶉は鳥、また山芋と鰻。全然種族を異にするが形状は似る。だから実体はちがうが形が似ていれば誤って見られやすく、あり得ぬことも起こるように、そのようにものごとはよく変化するものであると。一字一仏、変じ転じて凡夫を仏となすことの譬話である。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=256</comments>
 <pubDate>Tue, 1 Mar 2011 11:38:38 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十三年二月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=255</link>
<description><![CDATA[平成二十三年二月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20110201-seigo201102.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「至極の言葉」建治二年（一二七六年　聖寿五十五歳）<br />
一生涯、賢明に事を処して波風おこすことなく、順調に人生をすごしてきた人でも、最後期のただ一言が仇となって身を亡ぼし、永年の功を台無しとしてしまうことがある。「九(きゅう)仞(じん)の功(こう)を一(いっ)簣(き)に欠(か)く」は口惜しいこと、重々心しなくてはならぬことである。<br />
一言(いちげん)既(すで)に出(い)ずれば駟馬(しば)も追い難し、駟(し)も舌(した)に及ばず、なのである。だから、一言(いちげん)以て之を蔽(おお)う、そのような一言(いちごん)。一言(いちごん)の約、そのような重みのある言葉。男子の一言(いちごん)金鉄(きんてつ)の如し、であるべき発言。これらが求められよう。<br />
言言(げんげん)肺腑(はいふ)を突く誠意と熱意の言葉。ひびき万雷(ばんらい)の切言(せつげん)。声涙(せいるい)倶(とも)に下る慈言(じげん)。対するに、言わずもがなの駄言(だげん)・放言(ほうげん)の類(るい)はよろしく禁制あるのみ。<br />
同人宛ての別状に日蓮聖人は言われる。｢千年のかるかや（苅茅）も一時にはい（灰）となる。百年の功も一言にやぶ（破）れ候は、法のことわり（理）なり｣と。｢法の理(ことわり)｣に無知であっては破滅あるのみ。事事(ことごと)、理(ことわり)にはずれてはならぬのである。檀越池上氏宛て両状至言。二句の紹介。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=255</comments>
 <pubDate>Tue, 1 Feb 2011 17:44:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十三年一月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=254</link>
<description><![CDATA[平成二十三年一月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20101224-seigo201101.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「小と大の相関」文応元年（一二六〇年　聖寿三十九歳）<br />
大海の一滴となればごくごく微量。あるかなきかすら知れぬほどである。存在感もわかぬから、まして存在意義はないかのようである。<br />
けれども、そのような存在も意義も乏しい巨海の一滴であっても、その一しずくのより集まりが凝(こ)ってついに成したのが大海である。つまるところ、微小の一滴なくては大海たり得ないのである。<br />
かくして極微が極大をなりたたせているのであるから、微量な一滴の存在の意義と価値は途方もなく巨大であるといわねばなるまい。｢衆流あつまりて大海となる｣のだから、｢一塵積りて須彌山となる｣のは当然である。<br />
こうして我等、非力を嘆き無力をかこつこと全くなし。巨木の幹を穿つ小鳥がいる。雨垂れもいつしか石に穴をあける。要すれば精勤(せいごん)あるのみ。なせば成り、なさねば成らぬのである。云く。「為す者は常に成り、行う者は常に至る」。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=254</comments>
 <pubDate>Sat, 1 Jan 2011 16:00:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年十二月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=253</link>
<description><![CDATA[平成二十二年十二月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20101203-seigo201012.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「今昔通同の道理」建治三年（一二七七年　聖寿五十六歳）<br />
池上兄弟と父との「日蓮聖人帰依」をめぐる争いは長くもつれあい、葛藤は久しくうずまき、悶着の度を深めた。兄、大夫志宗仲は強信を貫いた。弟、兵衛志宗長は父を捨て兄につくか、つまり信仰を貫くか、兄を捨て父につくか、つまり実利について家督を相続するか、択一の企路に立って苦悶をかさねた。<br />
日蓮聖人は書状多数を兄弟に発して教導し、教示した。ことに帰趨にまよう弟への暁諭の言葉は激語を発して連綿としてつづいた。　<br />
法華経第二十七章厳王品は、邪心の父王妙荘厳とそれを改信させた仏徒浄蔵・浄眼二子の物語である。昔、父のめざめをいざなった兄弟。今、池上兄弟も合力して法華経が明かす往事の因縁故事に習え。法華経はまことの言葉である。道理の言葉である。道理実現の言葉である。日蓮聖人は、全智を傾けことばを尽くして教導し救済せんとした。かくて兄二度の勘当を含む家庭争議は、ついに円満解決に導かれるに至る。法華経信仰をめぐる池上家の事件は、今昔通同の道理を鮮やかに実証したのであった。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=253</comments>
 <pubDate>Fri, 3 Dec 2010 18:30:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年十一月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=252</link>
<description><![CDATA[平成二十二年十一月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20101102-seigo201011.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「読経(どっきょう)の姿勢」文永十年（一二七三年　聖寿五二歳）<br />
法華経の全品二十八章。その全部の文字、一々の文字は、どの一字もことごとく釈尊の真実のみ心である。釈尊がご本意を説きあらわしたものである。法華経は釈尊出世の本懐経だから、全ての文字、一々の文字には釈尊のみ心がこもるのである。ご本意が宿らせたまうのである。<br />
法華経を読むもの、このことに深くおもいをひそめ、深信(じんしん)体読(たいどく)して釈尊のみ心に寄り添わなくてはならない。文字をただ文字としてとどめるか、そうではなく変じ転じて仏のみ心を掬(きく)するものとなるか。それは読む者の信受の心、真実信心の人であるか否かによってのみ決定することである。<br />
｢仏の御意｣を知り解し、つつしんで法華経を読む。そのような深信にもとづく敬虔な法華経の読み手となれかしと。それが釈尊のご意志であり御要請である。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=252</comments>
 <pubDate>Tue, 2 Nov 2010 15:30:29 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年十月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=251</link>
<description><![CDATA[平成二十二年十月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20101001-seigo201010.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「約束の重大性」建治元年（一二七五年　聖寿五十四歳）<br />
約束の履行はなかなか困難である。人が世にあるということは、それ自体さまざまな約束ごとで結ばれている。それは網の目のようにつながっている。だから一つの不履行はたちまち他へ影響し、余波を生むこと必然である。<br />
約束は、それがたとえつまらないことであっても違えてはならない、というのが掲示文の意味。約束は厳粛・厳正を内実とする。違約や破棄は、世俗にあっても信頼をそこねる。まして、出世間・信仰の世界にあっては、棄教となってすべてを失う。約束は守らねばならない。<br />
日蓮聖人は、世俗倫理にすぎぬかにおもえる約束を重視した。信仰とは約束であると。｢まして約束せし事たがうべしや｣　｢いかに約束をばたがえらるるぞ｣と。日蓮聖人の宗教は、本仏釈尊との堅固な約束にたつ。日蓮聖人は本仏に約束し、本仏は日蓮聖人の応生を約束した。約束は決して世俗の規範ではないのである。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=251</comments>
 <pubDate>Fri, 1 Oct 2010 10:41:25 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年九月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=250</link>
<description><![CDATA[平成二十二年九月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20100907-seigo201009.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「末法の法華経」文永二年（一二六五年　聖寿四十四歳）<br />
法華経第二十三章薬王品は、十種の譬喩をもって法華経が諸経を超え出た最勝の経典、仏典の大王経であることを明し称揚する。<br />
『薬王品得意鈔(やくおうぼんとくいしょう)』は、薬王品の十喩称揚を説明したもの。ここは十喩の「第三(だいさん)譬月(ひがつ)」の文で月と星との光の度合いを対比校量(たいひきょうりょう)した箇所。経文は「衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、この法華経もまたまた是の如し。千万億種の諸の経法の中に於て最もこれ照明なり」。星屑無数に光るが、ただ一月の光に明を失う。「衆星は光ありと雖も月に及ばず」なのである。星と月の光輝の差異は比較を絶するように、法華経は諸経に超勝するとの宣言・断定である。<br />
しかも法華経は「末法為正・末法為本」である。釈尊滅後の三時代中、正法・像法は傍で、末法が正しく法華経が流布し衆生が救済される特別の時代であると教諭する。それが掲示文の意味。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=250</comments>
 <pubDate>Fri, 3 Sep 2010 19:44:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年八月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=249</link>
<description><![CDATA[平成二十二年八月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20100804-seigo201008.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「唱題の得益」文永三年（一二六六年　聖寿四十五歳）<br />
掲示文は次の文節の断章である。｢さればさせる解(さと)りなくとも、南無妙法蓮華経と唱るならば悪道をまぬかるべし。譬ば蓮華は日に随って回る、蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す、是草に耳なし。我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し｣。『法華題目抄』は念仏信者の某女性に宛てた長文の書状。その長文を費やし自在に筆を進め、まさにねんごろに、懇情を傾け尽くして丁寧に説明し説得し、法華経の題目信仰を勧奨するのが本状の趣旨である。長大なこの手紙は、救済せずんば止まじの熱誠をあふれさせ、ひたむきな心を打ちつけて「とくとく心をひるがへすべし。南無妙法蓮華経」と結ばれる。<br />
南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題の得益得果の広大絶大を明かす言葉は平易で、その説得説示の辞句は層層と譬話を重ねて圧倒させる日蓮聖人の筆遣いである。原典・原文、読むべし。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=249</comments>
 <pubDate>Wed, 4 Aug 2010 18:47:46 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[今月の聖語[平成二十二年七月]]]></title>
 <link>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=248</link>
<description><![CDATA[平成二十二年七月の聖語をご紹介します。<br />
<a href="http://temple.d-nichiren.jp/media/5/20100721-seigo201007.gif"></a><br />
<br />
＝解説＝「本当の信心」文応元年（一二六〇年聖寿三十九歳）<br />
『立正安国論』のこの部分は「人は皆、救われたいと言う同じ信心を持っている。しかしその信心の故に、妄りに邪な言葉を貴んでしまう。凡夫とは悲しい生きものだ」と、厳しく叱りながらも、心配し、慈悲に溢れた親心を示しています。<br />
凡夫と言う普通の人間は、正しいと信じて、純粋に間違いを犯してしまいます。たとえば、エスカレーターの乗り方です。右か左を空けて、急ぐ人に譲るのがマナーですが、左右どちらを空けるのが正しいのでしょうか？と論じられる姿とよく似ているのです。答えは、左右どちらでもありません。エスカレーターは真ん中に立つ設計になっています。片寄った立ち方は故障のもとであり、その上、歩くのは、もってのほかです。してはいけない行為なのです。しかし真ん中に立つと言う正しい行動は、間違いを固く信じている多くの人々には受け入れられません。<br />
人には、人の役に立とうとする心があります。しかしそれが、必ずしも正しいとは限らないのです。信心もそうです。だからこそ「汝早く信仰の寸心を改めて」と一切衆生を救済する深いメッセージが『立正安国論』に示されたのです。<br />
]]></description>
 <category>日蓮聖人聖語</category>
<comments>http://temple.d-nichiren.jp/index.php?itemid=248</comments>
 <pubDate>Wed, 14 Jul 2010 13:53:00 +0900</pubDate>
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