2010年01月14日(Thu)
今月の聖語[平成二十二年一月]
平成二十二年一月の聖語をご紹介します。
=解説=「重々の策励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出前文に「彼等には、ただ一円に思い切れ」とある。日蓮聖人は断固たる決断を要請されたのであった。更に続く「ひだるしと思わば餓鬼道を教えよ。寒しといわば八寒地獄を教えよ。恐ろしといわば鷹にあえる雉、猫にあえる鼠を他人とおもう事なかれ。」と。
彼等とは、駿河熱原の日蓮聖人の信徒群で農民たち二十名。「日蓮帰依」を憎んだ鎌倉幕府執権北条時宗の腹心で、侍所所司(次官)平頼綱は「日蓮門下」に不当な暴圧を久しく加え、ついに信徒群を捕縛し、鎌倉に連行した。頼綱は私邸で彼等を拷問し、その果てに三人をみせしめに虐殺するにいたる。捕縛連行の急報に接した日蓮聖人は門弟に指示。弘安二年十月一日付この状がそれである。事件「熱原法難」は、国権介入の不当な弾圧であり暴挙であった。
日蓮聖人は渾身の気迫を込め必死の教示書の筆をふるった。頼綱の狂気的加害を充分予測し得たから、日蓮聖人はまことに厳しいぎりぎりの言葉を費やし、策励されたのであった。
=解説=「重々の策励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出前文に「彼等には、ただ一円に思い切れ」とある。日蓮聖人は断固たる決断を要請されたのであった。更に続く「ひだるしと思わば餓鬼道を教えよ。寒しといわば八寒地獄を教えよ。恐ろしといわば鷹にあえる雉、猫にあえる鼠を他人とおもう事なかれ。」と。
彼等とは、駿河熱原の日蓮聖人の信徒群で農民たち二十名。「日蓮帰依」を憎んだ鎌倉幕府執権北条時宗の腹心で、侍所所司(次官)平頼綱は「日蓮門下」に不当な暴圧を久しく加え、ついに信徒群を捕縛し、鎌倉に連行した。頼綱は私邸で彼等を拷問し、その果てに三人をみせしめに虐殺するにいたる。捕縛連行の急報に接した日蓮聖人は門弟に指示。弘安二年十月一日付この状がそれである。事件「熱原法難」は、国権介入の不当な弾圧であり暴挙であった。
日蓮聖人は渾身の気迫を込め必死の教示書の筆をふるった。頼綱の狂気的加害を充分予測し得たから、日蓮聖人はまことに厳しいぎりぎりの言葉を費やし、策励されたのであった。
2009年12月07日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年十二月]
平成二十一年十二月の聖語をご紹介します。
=解説=「督 励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出文の前には、「かれは人の上とこそみ(見)しかども、今は我等がみ(身)にかかれり」とある。
日常茶飯の事柄、どうでもよいこと、ありふれた平凡事でも「人のふり見て我がふり直せ」、「人の上見て我が身を思え」としきりにいう。身辺の雑事ですらそうなのだから、ましてや俗事をこえた信仰の世界に生きんとする我等、不退転の決意で仏を目指している我等なのだから、せまりくる暴圧にたじろぐことがあっては、前者の轍を踏むではないか。
今は傍観し得る他人事ではなく、我身に直接降りかかってきた厄難である。心しなくてはならない。仏を目指す本願成就のために、大願を発起せねばならぬのだ。かえすがえす念願する。「我が弟子等、大願をおこせ」と。門弟の国権弾圧。その法難(熱原法難)に遭遇しての教導者日蓮聖人の督励の辞である。死身弘法の聖者日蓮聖人の激励の言葉である。
=解説=「督 励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出文の前には、「かれは人の上とこそみ(見)しかども、今は我等がみ(身)にかかれり」とある。
日常茶飯の事柄、どうでもよいこと、ありふれた平凡事でも「人のふり見て我がふり直せ」、「人の上見て我が身を思え」としきりにいう。身辺の雑事ですらそうなのだから、ましてや俗事をこえた信仰の世界に生きんとする我等、不退転の決意で仏を目指している我等なのだから、せまりくる暴圧にたじろぐことがあっては、前者の轍を踏むではないか。
今は傍観し得る他人事ではなく、我身に直接降りかかってきた厄難である。心しなくてはならない。仏を目指す本願成就のために、大願を発起せねばならぬのだ。かえすがえす念願する。「我が弟子等、大願をおこせ」と。門弟の国権弾圧。その法難(熱原法難)に遭遇しての教導者日蓮聖人の督励の辞である。死身弘法の聖者日蓮聖人の激励の言葉である。
2009年11月02日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年十一月]
平成二十一年十一月の聖語をご紹介します。
=解説=「愛 育」弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
純真一徹な鎌倉武士四条金吾頼基は、素直でまっすぐな性格を愛でられ、信心の志ことのほか純信であったから日蓮聖人に深く愛された。日蓮聖人は、あたかも弟を保護するように身辺の些事(さじ)まで気を配り愛育の手をさしのべられた。
師弟一枚の信が根底に存したのであるが、頼基の性格は直情径行でもあったから、主君のおぼえめでたい身は、同僚の嫉妬を招き、主従間の離間策を弄されて主の不興をかうに到った。頼基は、窮地に陥り苦しみ悩むが、隠忍自重久しきにわたって遂に苦境を乗り越える。それは、日蓮聖人の教導に純真素直に従った成果であった。
陰ながらの徳行(とっこう)は必ず報われると日蓮聖人は言い教えてきた。四条頼基は、年余のはてに主君の信頼を回復し一陽来復の時を迎えたが、陰徳は果報の来る門口であったし、来るべき大果報の前兆だと日蓮聖人は、言い励ましたのであった。
=解説=「愛 育」弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
純真一徹な鎌倉武士四条金吾頼基は、素直でまっすぐな性格を愛でられ、信心の志ことのほか純信であったから日蓮聖人に深く愛された。日蓮聖人は、あたかも弟を保護するように身辺の些事(さじ)まで気を配り愛育の手をさしのべられた。
師弟一枚の信が根底に存したのであるが、頼基の性格は直情径行でもあったから、主君のおぼえめでたい身は、同僚の嫉妬を招き、主従間の離間策を弄されて主の不興をかうに到った。頼基は、窮地に陥り苦しみ悩むが、隠忍自重久しきにわたって遂に苦境を乗り越える。それは、日蓮聖人の教導に純真素直に従った成果であった。
陰ながらの徳行(とっこう)は必ず報われると日蓮聖人は言い教えてきた。四条頼基は、年余のはてに主君の信頼を回復し一陽来復の時を迎えたが、陰徳は果報の来る門口であったし、来るべき大果報の前兆だと日蓮聖人は、言い励ましたのであった。