アーカイブリスト
2008年07月24日(Thu)
心太
俳人協会のカレンダーに
「心太(ところてん)嫌ひさらりと生きられず」(渡辺恭子)という句がのっている。
それを見て、最初、わたしが
「心大嫌(こころだいきら)ひさらりと生きられず」
とはずいぶんとはっきり述べたもの、と感心していると、家内から「心太はところてん、なのよ」とたしなめられ、句を確かめて驚いたものだ。
そして、昔、身延山の東谷の茶店に「ところてん あります」というビラが出ていたことをなつかしく思い出した。
それにしても、この夏は、まるでところてんのように、官庁の悪事がつぎつぎと露見する。
ことに大分県教育委員会関係者の汚職には唖然とする。
地位を金で買って、子供たちにはすまして訓戒を垂れていたとはあきれるではないか。
悪事に手を染めなければ教育界を生きることができなかったのだろうか。
ところてんができるように次から次へと教師の悪事が連鎖していくおそろしさ。
かれらが、さらりと、連鎖の網にしがみついたとは思いたくない。
「心太(ところてん)嫌ひさらりと生きられず」(渡辺恭子)という句がのっている。
それを見て、最初、わたしが
「心大嫌(こころだいきら)ひさらりと生きられず」
とはずいぶんとはっきり述べたもの、と感心していると、家内から「心太はところてん、なのよ」とたしなめられ、句を確かめて驚いたものだ。
そして、昔、身延山の東谷の茶店に「ところてん あります」というビラが出ていたことをなつかしく思い出した。
それにしても、この夏は、まるでところてんのように、官庁の悪事がつぎつぎと露見する。
ことに大分県教育委員会関係者の汚職には唖然とする。
地位を金で買って、子供たちにはすまして訓戒を垂れていたとはあきれるではないか。
悪事に手を染めなければ教育界を生きることができなかったのだろうか。
ところてんができるように次から次へと教師の悪事が連鎖していくおそろしさ。
かれらが、さらりと、連鎖の網にしがみついたとは思いたくない。
2008年07月21日(Mon)
お盆に考える
お盆と終戦の日が重なっているために、これから戦争と戦没者に関するマスコミの評言が多くなる。
6月4日から連載された毎日新聞の「平和をたずねて-快楽としての戦争-」(福岡賢正)に注目した。これは福岡県のある村の戦争体験集から戦争の一面を考えたものだ。こんな文章がある。
《敵兵捕獲しては穴を掘って銃殺する事何人と数えきれない程です。‥‥戦火の合間に‥‥食料の徴発其の他支那人の女美人とも接し本当に楽しい事も有りました》
そして記者は「戦争は悲惨だ。だから絶対してはならぬと人は言う。しかし‥‥なお戦争が続いているのは、戦争が人間を陶然とさせてやまない快楽の要素を併せ持っているからではないか」と問題を提起している。
戦国時代の戦は出稼ぎだったという説を読んだこともある。
そして現在も戦火は絶えることなく、わが国では秋葉原通り魔事件等も続発している。
お盆は、せめてひとときでもわが心の奥深く潜むものを見つめるときでありたい。
6月4日から連載された毎日新聞の「平和をたずねて-快楽としての戦争-」(福岡賢正)に注目した。これは福岡県のある村の戦争体験集から戦争の一面を考えたものだ。こんな文章がある。
《敵兵捕獲しては穴を掘って銃殺する事何人と数えきれない程です。‥‥戦火の合間に‥‥食料の徴発其の他支那人の女美人とも接し本当に楽しい事も有りました》
そして記者は「戦争は悲惨だ。だから絶対してはならぬと人は言う。しかし‥‥なお戦争が続いているのは、戦争が人間を陶然とさせてやまない快楽の要素を併せ持っているからではないか」と問題を提起している。
戦国時代の戦は出稼ぎだったという説を読んだこともある。
そして現在も戦火は絶えることなく、わが国では秋葉原通り魔事件等も続発している。
お盆は、せめてひとときでもわが心の奥深く潜むものを見つめるときでありたい。
2008年07月17日(Thu)
【東京都西部宗務所のホームページがリニューアルしました】
全国74管区の1つである東京都西部宗務所のホームページがリニューアルしました。
マップ付きの寺院一覧ページ等もあります。是非、アクセスしてみてください。
http://www.tokyo-saibu.com/
マップ付きの寺院一覧ページ等もあります。是非、アクセスしてみてください。
http://www.tokyo-saibu.com/
2008年07月04日(Fri)
2008年07月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十年七月]
平成二十年七月の聖語をご紹介します。
=解説=「喫緊(きっきん)の課題(かだい)」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
日蓮聖人は、十二歳清澄寺(せいちょうじ)に登って仏教の修学に着手。四年後の十六歳、髪を剃り落として出家、是聖房(ぜしょうぼう)と名乗られた。登山につぐ第二の転機は仏弟子としての道を歩むことであった。四年間の基礎学の修得を卒(お)えてさらなる修学の志望をかきたて出家の道へと日蓮聖人をいざなった動機はいくつか知られる。
その主要で決定的であったのは無常観であり、人生無常苦・死の超克の問題であった。死は人生苦の集約であり、争乱にあけくれる中世のただ中に生きられた日蓮聖人は、そのことを日々に実感されたのである。そこから臨終の大事を解決することが何にも勝る優先課題、先決問題である、と思い定められた。
=解説=「喫緊(きっきん)の課題(かだい)」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
日蓮聖人は、十二歳清澄寺(せいちょうじ)に登って仏教の修学に着手。四年後の十六歳、髪を剃り落として出家、是聖房(ぜしょうぼう)と名乗られた。登山につぐ第二の転機は仏弟子としての道を歩むことであった。四年間の基礎学の修得を卒(お)えてさらなる修学の志望をかきたて出家の道へと日蓮聖人をいざなった動機はいくつか知られる。
その主要で決定的であったのは無常観であり、人生無常苦・死の超克の問題であった。死は人生苦の集約であり、争乱にあけくれる中世のただ中に生きられた日蓮聖人は、そのことを日々に実感されたのである。そこから臨終の大事を解決することが何にも勝る優先課題、先決問題である、と思い定められた。
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