2008年08月01日(Fri)
今月の聖語[平成二十年八月]
平成二十年八月の聖語をご紹介します。
=解説=「善苗(ぜんみょう)下種(げしゅ)」 (一二五九年正元元年聖寿三十八歳)
世事はこの世のことども。この世は俗世。俗世間の諸事百般は多くはとりとめのない無価の事柄。俗事にかまけ、世間になずみ、ふりまわされて一生を終えるのが一般。このことは、在俗の人も仏道に入っている僧も、道俗あわせ通同だ。僧もまた俗の俗たる人と成り下がっているからだ。
だから要するにすべての人よ、まず何よりもこの世一時の俗事を止めて、心の種まきにいそしみ、永劫不変の善き苗を植え育てよう。善苗(ぜんみょう)とは仏種(ぶっしゅ)である。尊貴(そんき)な仏教をわれらの心田(しんでん)に植え、仏を目指し仏となることに励もう。それが仏教徒のふるまい、仕業(しわざ)である。
今この論策は日蓮の私言ではなく、経・論にもとづいての仏説である。自義ではない。客観視してさばいてほしい。
=解説=「善苗(ぜんみょう)下種(げしゅ)」 (一二五九年正元元年聖寿三十八歳)
世事はこの世のことども。この世は俗世。俗世間の諸事百般は多くはとりとめのない無価の事柄。俗事にかまけ、世間になずみ、ふりまわされて一生を終えるのが一般。このことは、在俗の人も仏道に入っている僧も、道俗あわせ通同だ。僧もまた俗の俗たる人と成り下がっているからだ。
だから要するにすべての人よ、まず何よりもこの世一時の俗事を止めて、心の種まきにいそしみ、永劫不変の善き苗を植え育てよう。善苗(ぜんみょう)とは仏種(ぶっしゅ)である。尊貴(そんき)な仏教をわれらの心田(しんでん)に植え、仏を目指し仏となることに励もう。それが仏教徒のふるまい、仕業(しわざ)である。
今この論策は日蓮の私言ではなく、経・論にもとづいての仏説である。自義ではない。客観視してさばいてほしい。
2008年07月24日(Thu)
心太
俳人協会のカレンダーに
「心太(ところてん)嫌ひさらりと生きられず」(渡辺恭子)という句がのっている。
それを見て、最初、わたしが
「心大嫌(こころだいきら)ひさらりと生きられず」
とはずいぶんとはっきり述べたもの、と感心していると、家内から「心太はところてん、なのよ」とたしなめられ、句を確かめて驚いたものだ。
そして、昔、身延山の東谷の茶店に「ところてん あります」というビラが出ていたことをなつかしく思い出した。
それにしても、この夏は、まるでところてんのように、官庁の悪事がつぎつぎと露見する。
ことに大分県教育委員会関係者の汚職には唖然とする。
地位を金で買って、子供たちにはすまして訓戒を垂れていたとはあきれるではないか。
悪事に手を染めなければ教育界を生きることができなかったのだろうか。
ところてんができるように次から次へと教師の悪事が連鎖していくおそろしさ。
かれらが、さらりと、連鎖の網にしがみついたとは思いたくない。
「心太(ところてん)嫌ひさらりと生きられず」(渡辺恭子)という句がのっている。
それを見て、最初、わたしが
「心大嫌(こころだいきら)ひさらりと生きられず」
とはずいぶんとはっきり述べたもの、と感心していると、家内から「心太はところてん、なのよ」とたしなめられ、句を確かめて驚いたものだ。
そして、昔、身延山の東谷の茶店に「ところてん あります」というビラが出ていたことをなつかしく思い出した。
それにしても、この夏は、まるでところてんのように、官庁の悪事がつぎつぎと露見する。
ことに大分県教育委員会関係者の汚職には唖然とする。
地位を金で買って、子供たちにはすまして訓戒を垂れていたとはあきれるではないか。
悪事に手を染めなければ教育界を生きることができなかったのだろうか。
ところてんができるように次から次へと教師の悪事が連鎖していくおそろしさ。
かれらが、さらりと、連鎖の網にしがみついたとは思いたくない。
2008年07月21日(Mon)
お盆に考える
お盆と終戦の日が重なっているために、これから戦争と戦没者に関するマスコミの評言が多くなる。
6月4日から連載された毎日新聞の「平和をたずねて−快楽としての戦争−」(福岡賢正)に注目した。これは福岡県のある村の戦争体験集から戦争の一面を考えたものだ。こんな文章がある。
《敵兵捕獲しては穴を掘って銃殺する事何人と数えきれない程です。‥‥戦火の合間に‥‥食料の徴発其の他支那人の女美人とも接し本当に楽しい事も有りました》
そして記者は「戦争は悲惨だ。だから絶対してはならぬと人は言う。しかし‥‥なお戦争が続いているのは、戦争が人間を陶然とさせてやまない快楽の要素を併せ持っているからではないか」と問題を提起している。
戦国時代の戦は出稼ぎだったという説を読んだこともある。
そして現在も戦火は絶えることなく、わが国では秋葉原通り魔事件等も続発している。
お盆は、せめてひとときでもわが心の奥深く潜むものを見つめるときでありたい。
6月4日から連載された毎日新聞の「平和をたずねて−快楽としての戦争−」(福岡賢正)に注目した。これは福岡県のある村の戦争体験集から戦争の一面を考えたものだ。こんな文章がある。
《敵兵捕獲しては穴を掘って銃殺する事何人と数えきれない程です。‥‥戦火の合間に‥‥食料の徴発其の他支那人の女美人とも接し本当に楽しい事も有りました》
そして記者は「戦争は悲惨だ。だから絶対してはならぬと人は言う。しかし‥‥なお戦争が続いているのは、戦争が人間を陶然とさせてやまない快楽の要素を併せ持っているからではないか」と問題を提起している。
戦国時代の戦は出稼ぎだったという説を読んだこともある。
そして現在も戦火は絶えることなく、わが国では秋葉原通り魔事件等も続発している。
お盆は、せめてひとときでもわが心の奥深く潜むものを見つめるときでありたい。