アーカイブリスト
2009年03月25日(Wed)
【いのちに合掌】の難しさ
お彼岸も過ぎた。
今年の法話の題は「いのちに合掌のむずかしさ」であった。
と、いうのは、毎年三月になると、お寺はいつも鳥の被害に悩まされるからだ。
丹精してじゅうたんのようになっている苔の庭が鳥に荒らされるのである。
目当ては苔の下の虫やミミズらしい。
もう、こうなると「かわいい鳥の鳴き声だね」などといってられない。
外へ出ては、ひっくりかえされた苔を元へと戻す、このわずらわしさ。
「ぶっころしてやる」と思わずつぶやいているが、敵は空の上、どうにもならない。
家内にぶつぶつ言うと、「いのちに合掌でしょう」と、こちらは鳥の味方である。
こうして毎年、鳥とのにらみ合いが続くのだが、いつも、こちらの負けである。
なにしろ、敵は生きるためにエサをとっているのだから、その真剣さにはつねに負けるのである。
「いのちに合掌」もたいへんなのだ。
鳥についばまれる虫やミミズもいのちだが。
先日、テレビで「森山大道、犬の記憶」が放映された。
私は森山大道の写真のフアンなので録画して三回見た。
そのなかで二十年前の新宿バス放火事件のことが話題になっていて、犯行のきっかけは、犯人が犯行の直前に、通行人の一人から「お前、あっちへ行け」とののしられたことが原因のひとつではないかと語っている人がいた。
ののしった通行人はののしった言葉さえ覚えていないだろう。
しかし、ののしられたほうにしてみると、それが犯行のひきがねとなったことは充分に考えられることだ。
「いのちに合掌」のむずかしさは、弱者の立場に立つことのむずかしさではないだろうか。
「いのちに合掌」の出典のひとつは法華経常不軽菩薩品。
合掌して礼拝した不軽菩薩はけっして強者ではなかったということに留意することが大事なことではなかろうか。
今、WBCの決勝戦が始まった。
どちらが勝つのか。
勝敗がついたときにはお互いに讃えあおうではないか。
それが人や国家の成熟というものだろう。
今年の法話の題は「いのちに合掌のむずかしさ」であった。
と、いうのは、毎年三月になると、お寺はいつも鳥の被害に悩まされるからだ。
丹精してじゅうたんのようになっている苔の庭が鳥に荒らされるのである。
目当ては苔の下の虫やミミズらしい。
もう、こうなると「かわいい鳥の鳴き声だね」などといってられない。
外へ出ては、ひっくりかえされた苔を元へと戻す、このわずらわしさ。
「ぶっころしてやる」と思わずつぶやいているが、敵は空の上、どうにもならない。
家内にぶつぶつ言うと、「いのちに合掌でしょう」と、こちらは鳥の味方である。
こうして毎年、鳥とのにらみ合いが続くのだが、いつも、こちらの負けである。
なにしろ、敵は生きるためにエサをとっているのだから、その真剣さにはつねに負けるのである。
「いのちに合掌」もたいへんなのだ。
鳥についばまれる虫やミミズもいのちだが。
先日、テレビで「森山大道、犬の記憶」が放映された。
私は森山大道の写真のフアンなので録画して三回見た。
そのなかで二十年前の新宿バス放火事件のことが話題になっていて、犯行のきっかけは、犯人が犯行の直前に、通行人の一人から「お前、あっちへ行け」とののしられたことが原因のひとつではないかと語っている人がいた。
ののしった通行人はののしった言葉さえ覚えていないだろう。
しかし、ののしられたほうにしてみると、それが犯行のひきがねとなったことは充分に考えられることだ。
「いのちに合掌」のむずかしさは、弱者の立場に立つことのむずかしさではないだろうか。
「いのちに合掌」の出典のひとつは法華経常不軽菩薩品。
合掌して礼拝した不軽菩薩はけっして強者ではなかったということに留意することが大事なことではなかろうか。
今、WBCの決勝戦が始まった。
どちらが勝つのか。
勝敗がついたときにはお互いに讃えあおうではないか。
それが人や国家の成熟というものだろう。
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