2011年01月01日(Sat)
今月の聖語[平成二十三年一月]
平成二十三年一月の聖語をご紹介します。
=解説=「小と大の相関」文応元年(一二六〇年 聖寿三十九歳)
大海の一滴となればごくごく微量。あるかなきかすら知れぬほどである。存在感もわかぬから、まして存在意義はないかのようである。
けれども、そのような存在も意義も乏しい巨海の一滴であっても、その一しずくのより集まりが凝(こ)ってついに成したのが大海である。つまるところ、微小の一滴なくては大海たり得ないのである。
かくして極微が極大をなりたたせているのであるから、微量な一滴の存在の意義と価値は途方もなく巨大であるといわねばなるまい。「衆流あつまりて大海となる」のだから、「一塵積りて須彌山となる」のは当然である。
こうして我等、非力を嘆き無力をかこつこと全くなし。巨木の幹を穿つ小鳥がいる。雨垂れもいつしか石に穴をあける。要すれば精勤(せいごん)あるのみ。なせば成り、なさねば成らぬのである。云く。「為す者は常に成り、行う者は常に至る」。
=解説=「小と大の相関」文応元年(一二六〇年 聖寿三十九歳)
大海の一滴となればごくごく微量。あるかなきかすら知れぬほどである。存在感もわかぬから、まして存在意義はないかのようである。
けれども、そのような存在も意義も乏しい巨海の一滴であっても、その一しずくのより集まりが凝(こ)ってついに成したのが大海である。つまるところ、微小の一滴なくては大海たり得ないのである。
かくして極微が極大をなりたたせているのであるから、微量な一滴の存在の意義と価値は途方もなく巨大であるといわねばなるまい。「衆流あつまりて大海となる」のだから、「一塵積りて須彌山となる」のは当然である。
こうして我等、非力を嘆き無力をかこつこと全くなし。巨木の幹を穿つ小鳥がいる。雨垂れもいつしか石に穴をあける。要すれば精勤(せいごん)あるのみ。なせば成り、なさねば成らぬのである。云く。「為す者は常に成り、行う者は常に至る」。
2010年12月03日(Fri)
今月の聖語[平成二十二年十二月]
平成二十二年十二月の聖語をご紹介します。
=解説=「今昔通同の道理」建治三年(一二七七年 聖寿五十六歳)
池上兄弟と父との「日蓮聖人帰依」をめぐる争いは長くもつれあい、葛藤は久しくうずまき、悶着の度を深めた。兄、大夫志宗仲は強信を貫いた。弟、兵衛志宗長は父を捨て兄につくか、つまり信仰を貫くか、兄を捨て父につくか、つまり実利について家督を相続するか、択一の企路に立って苦悶をかさねた。
日蓮聖人は書状多数を兄弟に発して教導し、教示した。ことに帰趨にまよう弟への暁諭の言葉は激語を発して連綿としてつづいた。
法華経第二十七章厳王品は、邪心の父王妙荘厳とそれを改信させた仏徒浄蔵・浄眼二子の物語である。昔、父のめざめをいざなった兄弟。今、池上兄弟も合力して法華経が明かす往事の因縁故事に習え。法華経はまことの言葉である。道理の言葉である。道理実現の言葉である。日蓮聖人は、全智を傾けことばを尽くして教導し救済せんとした。かくて兄二度の勘当を含む家庭争議は、ついに円満解決に導かれるに至る。法華経信仰をめぐる池上家の事件は、今昔通同の道理を鮮やかに実証したのであった。
=解説=「今昔通同の道理」建治三年(一二七七年 聖寿五十六歳)
池上兄弟と父との「日蓮聖人帰依」をめぐる争いは長くもつれあい、葛藤は久しくうずまき、悶着の度を深めた。兄、大夫志宗仲は強信を貫いた。弟、兵衛志宗長は父を捨て兄につくか、つまり信仰を貫くか、兄を捨て父につくか、つまり実利について家督を相続するか、択一の企路に立って苦悶をかさねた。
日蓮聖人は書状多数を兄弟に発して教導し、教示した。ことに帰趨にまよう弟への暁諭の言葉は激語を発して連綿としてつづいた。
法華経第二十七章厳王品は、邪心の父王妙荘厳とそれを改信させた仏徒浄蔵・浄眼二子の物語である。昔、父のめざめをいざなった兄弟。今、池上兄弟も合力して法華経が明かす往事の因縁故事に習え。法華経はまことの言葉である。道理の言葉である。道理実現の言葉である。日蓮聖人は、全智を傾けことばを尽くして教導し救済せんとした。かくて兄二度の勘当を含む家庭争議は、ついに円満解決に導かれるに至る。法華経信仰をめぐる池上家の事件は、今昔通同の道理を鮮やかに実証したのであった。
2010年11月02日(Tue)
今月の聖語[平成二十二年十一月]
平成二十二年十一月の聖語をご紹介します。
=解説=「読経(どっきょう)の姿勢」文永十年(一二七三年 聖寿五二歳)
法華経の全品二十八章。その全部の文字、一々の文字は、どの一字もことごとく釈尊の真実のみ心である。釈尊がご本意を説きあらわしたものである。法華経は釈尊出世の本懐経だから、全ての文字、一々の文字には釈尊のみ心がこもるのである。ご本意が宿らせたまうのである。
法華経を読むもの、このことに深くおもいをひそめ、深信(じんしん)体読(たいどく)して釈尊のみ心に寄り添わなくてはならない。文字をただ文字としてとどめるか、そうではなく変じ転じて仏のみ心を掬(きく)するものとなるか。それは読む者の信受の心、真実信心の人であるか否かによってのみ決定することである。
「仏の御意」を知り解し、つつしんで法華経を読む。そのような深信にもとづく敬虔な法華経の読み手となれかしと。それが釈尊のご意志であり御要請である。
=解説=「読経(どっきょう)の姿勢」文永十年(一二七三年 聖寿五二歳)
法華経の全品二十八章。その全部の文字、一々の文字は、どの一字もことごとく釈尊の真実のみ心である。釈尊がご本意を説きあらわしたものである。法華経は釈尊出世の本懐経だから、全ての文字、一々の文字には釈尊のみ心がこもるのである。ご本意が宿らせたまうのである。
法華経を読むもの、このことに深くおもいをひそめ、深信(じんしん)体読(たいどく)して釈尊のみ心に寄り添わなくてはならない。文字をただ文字としてとどめるか、そうではなく変じ転じて仏のみ心を掬(きく)するものとなるか。それは読む者の信受の心、真実信心の人であるか否かによってのみ決定することである。
「仏の御意」を知り解し、つつしんで法華経を読む。そのような深信にもとづく敬虔な法華経の読み手となれかしと。それが釈尊のご意志であり御要請である。