2009年12月07日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年十二月]
平成二十一年十二月の聖語をご紹介します。
=解説=「督 励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出文の前には、「かれは人の上とこそみ(見)しかども、今は我等がみ(身)にかかれり」とある。
日常茶飯の事柄、どうでもよいこと、ありふれた平凡事でも「人のふり見て我がふり直せ」、「人の上見て我が身を思え」としきりにいう。身辺の雑事ですらそうなのだから、ましてや俗事をこえた信仰の世界に生きんとする我等、不退転の決意で仏を目指している我等なのだから、せまりくる暴圧にたじろぐことがあっては、前者の轍を踏むではないか。
今は傍観し得る他人事ではなく、我身に直接降りかかってきた厄難である。心しなくてはならない。仏を目指す本願成就のために、大願を発起せねばならぬのだ。かえすがえす念願する。「我が弟子等、大願をおこせ」と。門弟の国権弾圧。その法難(熱原法難)に遭遇しての教導者日蓮聖人の督励の辞である。死身弘法の聖者日蓮聖人の激励の言葉である。
=解説=「督 励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出文の前には、「かれは人の上とこそみ(見)しかども、今は我等がみ(身)にかかれり」とある。
日常茶飯の事柄、どうでもよいこと、ありふれた平凡事でも「人のふり見て我がふり直せ」、「人の上見て我が身を思え」としきりにいう。身辺の雑事ですらそうなのだから、ましてや俗事をこえた信仰の世界に生きんとする我等、不退転の決意で仏を目指している我等なのだから、せまりくる暴圧にたじろぐことがあっては、前者の轍を踏むではないか。
今は傍観し得る他人事ではなく、我身に直接降りかかってきた厄難である。心しなくてはならない。仏を目指す本願成就のために、大願を発起せねばならぬのだ。かえすがえす念願する。「我が弟子等、大願をおこせ」と。門弟の国権弾圧。その法難(熱原法難)に遭遇しての教導者日蓮聖人の督励の辞である。死身弘法の聖者日蓮聖人の激励の言葉である。
2009年11月02日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年十一月]
平成二十一年十一月の聖語をご紹介します。
=解説=「愛 育」弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
純真一徹な鎌倉武士四条金吾頼基は、素直でまっすぐな性格を愛でられ、信心の志ことのほか純信であったから日蓮聖人に深く愛された。日蓮聖人は、あたかも弟を保護するように身辺の些事(さじ)まで気を配り愛育の手をさしのべられた。
師弟一枚の信が根底に存したのであるが、頼基の性格は直情径行でもあったから、主君のおぼえめでたい身は、同僚の嫉妬を招き、主従間の離間策を弄されて主の不興をかうに到った。頼基は、窮地に陥り苦しみ悩むが、隠忍自重久しきにわたって遂に苦境を乗り越える。それは、日蓮聖人の教導に純真素直に従った成果であった。
陰ながらの徳行(とっこう)は必ず報われると日蓮聖人は言い教えてきた。四条頼基は、年余のはてに主君の信頼を回復し一陽来復の時を迎えたが、陰徳は果報の来る門口であったし、来るべき大果報の前兆だと日蓮聖人は、言い励ましたのであった。
=解説=「愛 育」弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
純真一徹な鎌倉武士四条金吾頼基は、素直でまっすぐな性格を愛でられ、信心の志ことのほか純信であったから日蓮聖人に深く愛された。日蓮聖人は、あたかも弟を保護するように身辺の些事(さじ)まで気を配り愛育の手をさしのべられた。
師弟一枚の信が根底に存したのであるが、頼基の性格は直情径行でもあったから、主君のおぼえめでたい身は、同僚の嫉妬を招き、主従間の離間策を弄されて主の不興をかうに到った。頼基は、窮地に陥り苦しみ悩むが、隠忍自重久しきにわたって遂に苦境を乗り越える。それは、日蓮聖人の教導に純真素直に従った成果であった。
陰ながらの徳行(とっこう)は必ず報われると日蓮聖人は言い教えてきた。四条頼基は、年余のはてに主君の信頼を回復し一陽来復の時を迎えたが、陰徳は果報の来る門口であったし、来るべき大果報の前兆だと日蓮聖人は、言い励ましたのであった。
2009年10月05日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年十月]
平成二十一年十月の聖語をご紹介します。
=解説=「道心」 文永九年(一二七二年 聖寿五十一歳)
仏道に精進し、仏のさとりを求め願う心、道心。仏道を信奉実践する心の持ち主、道心者。道心を欠く人が無道心者であり、無道心であっては決して生死の繋縛(けいばく)をたち切って覚者(仏)になり得ない。真の道心者は世に少ないから、世に多い無道心ものたちからの嘲(あざけ)りをうける。
掲出文の前には「無道心の者、生死をはなるる事はなきなり。教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈(めり)せられさせ給い、天台大師の南北並びに得一(とくいち)に三寸の舌もて五尺の身をたつと、伝教大師の南京(なんきょう)の諸人に最澄未だ唐都を見ず等といわれさせ給いし。皆、法華経のゆへなれば恥ならず」とある。
敬すべき先師、教主釈尊・天台大師・伝教大師、みな悪罵(あくば)にさらされたがそれは大道心のためであったからなんら恥ではない。道心を欠くことこそが恥である。思うに無道心の愚人は、智人の心を計り知ることは出来ない。だから、そんな愚人からの讃辞はとんだ大恥だ。第一の恥だ。
=解説=「道心」 文永九年(一二七二年 聖寿五十一歳)
仏道に精進し、仏のさとりを求め願う心、道心。仏道を信奉実践する心の持ち主、道心者。道心を欠く人が無道心者であり、無道心であっては決して生死の繋縛(けいばく)をたち切って覚者(仏)になり得ない。真の道心者は世に少ないから、世に多い無道心ものたちからの嘲(あざけ)りをうける。
掲出文の前には「無道心の者、生死をはなるる事はなきなり。教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈(めり)せられさせ給い、天台大師の南北並びに得一(とくいち)に三寸の舌もて五尺の身をたつと、伝教大師の南京(なんきょう)の諸人に最澄未だ唐都を見ず等といわれさせ給いし。皆、法華経のゆへなれば恥ならず」とある。
敬すべき先師、教主釈尊・天台大師・伝教大師、みな悪罵(あくば)にさらされたがそれは大道心のためであったからなんら恥ではない。道心を欠くことこそが恥である。思うに無道心の愚人は、智人の心を計り知ることは出来ない。だから、そんな愚人からの讃辞はとんだ大恥だ。第一の恥だ。