2009年09月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十一年九月]
平成二十一年九月の聖語をご紹介します。
=解説=「この世の浄土化」正元元年(一二五九年 聖寿三十八歳)
此経とは法華経。久遠の昔、真実の成道を達成された釈迦如来は法華経を説き明かし、如来寿量品に根本教義を詮顕された。そこでは真実の浄土は他処になくここに常在すと示す。こことは我等が住む娑婆、現実のこの世である。娑婆即寂光土。瓦礫(がりゃく)荊棘(けいきょく)の穢土(えど)・魑魅魍魎の不浄世界の娑婆が所期(しょご)の浄土であるという。釈迦佛・法華経は、娑婆を離れて浄土はないと教え明かされたのである。
不浄の地に浄花を咲かせ、苦悩の忍土を逃避せず楽土にしたてあげる。西方浄土などというのは仮言・幻想の産物と指摘し喝破もされた。求むべき理想はかなたになくここにある。これが釈迦佛・法華経の教旨であり、釈迦佛・法華経への絶対信が娑婆に浄土を築くのである。
=解説=「この世の浄土化」正元元年(一二五九年 聖寿三十八歳)
此経とは法華経。久遠の昔、真実の成道を達成された釈迦如来は法華経を説き明かし、如来寿量品に根本教義を詮顕された。そこでは真実の浄土は他処になくここに常在すと示す。こことは我等が住む娑婆、現実のこの世である。娑婆即寂光土。瓦礫(がりゃく)荊棘(けいきょく)の穢土(えど)・魑魅魍魎の不浄世界の娑婆が所期(しょご)の浄土であるという。釈迦佛・法華経は、娑婆を離れて浄土はないと教え明かされたのである。
不浄の地に浄花を咲かせ、苦悩の忍土を逃避せず楽土にしたてあげる。西方浄土などというのは仮言・幻想の産物と指摘し喝破もされた。求むべき理想はかなたになくここにある。これが釈迦佛・法華経の教旨であり、釈迦佛・法華経への絶対信が娑婆に浄土を築くのである。
2009年08月03日(Mon)
今月の聖語[平成二十一年八月]
平成二十一年八月の聖語をご紹介します。
=解説=「督励」文永十二年 (一二七五年 聖寿五十四歳)
後生の善果、死後の成仏。これこそが仏教徒の究竟の願いである。
このことのために今生を意義あらしめねばならない。今生はあげて後生のためである。悪果の回避は今生の過ごしかた、活用の仕方にある。仏法の正しい理解とその上にたつ正信の覚路を歩むこと。正解のための学習活動は深刻徹底でなくてはならぬ。日蓮聖人が、門下へ言い教える習学督励の辞は、甚だ多い。止暇断眠、行学二道はもっとも名高い。「我弟子等、此旨を存して法門を案じ給うべし」「我門弟、委細にこれを尋討せよ」「眼有ん者は開いて之を見よ」「眼有ん我門弟は之を見よ」等々。このように門弟の習学実践を勧め励ましてやまぬ日蓮聖人ご自身が、まこと破格なまでの勉学に従事されたから、督励の辞は大変に重いのである。
=解説=「督励」文永十二年 (一二七五年 聖寿五十四歳)
後生の善果、死後の成仏。これこそが仏教徒の究竟の願いである。
このことのために今生を意義あらしめねばならない。今生はあげて後生のためである。悪果の回避は今生の過ごしかた、活用の仕方にある。仏法の正しい理解とその上にたつ正信の覚路を歩むこと。正解のための学習活動は深刻徹底でなくてはならぬ。日蓮聖人が、門下へ言い教える習学督励の辞は、甚だ多い。止暇断眠、行学二道はもっとも名高い。「我弟子等、此旨を存して法門を案じ給うべし」「我門弟、委細にこれを尋討せよ」「眼有ん者は開いて之を見よ」「眼有ん我門弟は之を見よ」等々。このように門弟の習学実践を勧め励ましてやまぬ日蓮聖人ご自身が、まこと破格なまでの勉学に従事されたから、督励の辞は大変に重いのである。
2009年07月02日(Thu)
今月の聖語[平成二十一年七月]
平成二十一年七月の聖語をご紹介します。
=解説=「信心肝要」 文永三年(一二六六年聖寿四十五歳)
仏法の大海(だいかい)は信を能入とするという。能入とは、仏の教えの門に入り、仏道成就へと導く最良・最先の手がかりのことで、それが「信」。信ずることによってのみ仏道をきわめ入ることができると、仏説はあかす。信心肝要、信心為先である。仏道に入るとは、信心の志とその実修によって成仏の大果をいただくことである。仏のすくいに預かる大安心の獲得である。そのための根本条件が信の一字である。
悟りの有無、この場合のさとりは仏教の理解度をさすが、世の常の知恵・才覚は、仏道に入るための必要条件ではない。いたずらな才能は、ややもすれば逆作用を生むから利根は不可。むしろ鈍根者は純信ゆえに一途で正しい見識をすなお・まっすぐにもつのであって、頼もしい。
=解説=「信心肝要」 文永三年(一二六六年聖寿四十五歳)
仏法の大海(だいかい)は信を能入とするという。能入とは、仏の教えの門に入り、仏道成就へと導く最良・最先の手がかりのことで、それが「信」。信ずることによってのみ仏道をきわめ入ることができると、仏説はあかす。信心肝要、信心為先である。仏道に入るとは、信心の志とその実修によって成仏の大果をいただくことである。仏のすくいに預かる大安心の獲得である。そのための根本条件が信の一字である。
悟りの有無、この場合のさとりは仏教の理解度をさすが、世の常の知恵・才覚は、仏道に入るための必要条件ではない。いたずらな才能は、ややもすれば逆作用を生むから利根は不可。むしろ鈍根者は純信ゆえに一途で正しい見識をすなお・まっすぐにもつのであって、頼もしい。