2008年06月01日(Sun)
今月の聖語[平成二十年六月]
平成二十年六月の聖語をご紹介します。
=解説=「仏花蓮華」(一二八一年弘安四年聖寿六十歳)
妙法蓮華経とは、妙なる蓮華の教え。仏教の象徴は蓮華。仏の花、仏花は蓮華である。花はどの花も美しい。めでたい花がある。花の中の花、大王の花が蓮華である。法華経は諸経の王、大王経だから、妙法蓮華経と名付けられた。
天上界にはマンダラ華、人間界には桜の花、仏界は蓮華。「蓮(はちす)はきよきもの、泥よりいでたり」。泥中に身を沈めながら汚泥に染まることなく清浄に咲き誇る花蓮華。仏花蓮華は、仏をめざす人間の生き方を無言で示す。
「一切の花の中に取分けて此花(このはな)を法華経に譬(たと)えさせ給(たも)う事は其故候(そのゆえそうろう)なり」という。仏花蓮華には、深い意味があるというのである。
=解説=「仏花蓮華」(一二八一年弘安四年聖寿六十歳)
妙法蓮華経とは、妙なる蓮華の教え。仏教の象徴は蓮華。仏の花、仏花は蓮華である。花はどの花も美しい。めでたい花がある。花の中の花、大王の花が蓮華である。法華経は諸経の王、大王経だから、妙法蓮華経と名付けられた。
天上界にはマンダラ華、人間界には桜の花、仏界は蓮華。「蓮(はちす)はきよきもの、泥よりいでたり」。泥中に身を沈めながら汚泥に染まることなく清浄に咲き誇る花蓮華。仏花蓮華は、仏をめざす人間の生き方を無言で示す。
「一切の花の中に取分けて此花(このはな)を法華経に譬(たと)えさせ給(たも)う事は其故候(そのゆえそうろう)なり」という。仏花蓮華には、深い意味があるというのである。
2008年05月01日(Thu)
今月の聖語[平成二十年五月]
平成二十年五月の聖語をご紹介します。
=解説=「夫婦」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
男女・夫婦の互いの役割をものに託して指摘した三箇条。掲出の二箇条の間には省略した一文がある。「男は足のごとし 女人は身のごとし」である。
桁(なかわ)は柱の上に渡す屋根の受け木。柱が倒れると落下する。柱なくして桁(けた)はない。桁(けた)なくば屋根ふけぬ。ともになくてはならぬ用材である。男女の関係、ここは夫婦の関係の密接不可分さを告げ、相互の関係をいいつくしている。
足と身、羽と身の関係を指摘して一体不可分さを語る。男が足と羽に譬(ひ)されたのは、夫のはたらきをいい、それが存分に活動するのは妻たる身のささえによるというわけ。つまりは、男の仕業は女の力ということ。「家に男なければ人の魂なきがごとし。公事(くうじ)をばたれにかいいあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき」とつづく。
=解説=「夫婦」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
男女・夫婦の互いの役割をものに託して指摘した三箇条。掲出の二箇条の間には省略した一文がある。「男は足のごとし 女人は身のごとし」である。
桁(なかわ)は柱の上に渡す屋根の受け木。柱が倒れると落下する。柱なくして桁(けた)はない。桁(けた)なくば屋根ふけぬ。ともになくてはならぬ用材である。男女の関係、ここは夫婦の関係の密接不可分さを告げ、相互の関係をいいつくしている。
足と身、羽と身の関係を指摘して一体不可分さを語る。男が足と羽に譬(ひ)されたのは、夫のはたらきをいい、それが存分に活動するのは妻たる身のささえによるというわけ。つまりは、男の仕業は女の力ということ。「家に男なければ人の魂なきがごとし。公事(くうじ)をばたれにかいいあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき」とつづく。
2008年04月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十年四月]
平成二十年四月の聖語をご紹介します。
=解説=「宗教と生活」 (建治二年 一二七六年聖寿五五歳)
この聖語の前には、「爾前の経々の心は、心より万法を生ず譬えば心は大地のごとし草木は万法のごとしと申す 法華経はしからず」とある。日蓮聖人は、爾前経と法華経の思想、その立脚点の相違を述べている。法華経が説かれる以前の諸経と法華経とは教理上おおいに異なり浅深があると。世間のありように対する認識はその一例であって、法華経以前の諸経は、世間の法を仏法と関係づけておしえているのであるが、法華経はそうではない。法華経では世間の法がそのまま仏法の全体であると解釈し認定するのである。爾前経は世間の現象を対立的相対的に見て、現象のあれこれを仏法と引き合わせて解釈するが、法華経は、端的・直截に世法即仏法と説くのである。
だから心が万法(すべてのもの)を生む大地で生ずる草木は万法というが、そうではなく、心即大地・大地即草木と見る。つまり対立の調和ではなく融合一体。すなわち宗教と生活の一枚化の原理の説示である。
=解説=「宗教と生活」 (建治二年 一二七六年聖寿五五歳)
この聖語の前には、「爾前の経々の心は、心より万法を生ず譬えば心は大地のごとし草木は万法のごとしと申す 法華経はしからず」とある。日蓮聖人は、爾前経と法華経の思想、その立脚点の相違を述べている。法華経が説かれる以前の諸経と法華経とは教理上おおいに異なり浅深があると。世間のありように対する認識はその一例であって、法華経以前の諸経は、世間の法を仏法と関係づけておしえているのであるが、法華経はそうではない。法華経では世間の法がそのまま仏法の全体であると解釈し認定するのである。爾前経は世間の現象を対立的相対的に見て、現象のあれこれを仏法と引き合わせて解釈するが、法華経は、端的・直截に世法即仏法と説くのである。
だから心が万法(すべてのもの)を生む大地で生ずる草木は万法というが、そうではなく、心即大地・大地即草木と見る。つまり対立の調和ではなく融合一体。すなわち宗教と生活の一枚化の原理の説示である。