アーカイブリスト
2009年09月30日(Wed)
慈悲と友愛の精神
鳩山首相が友愛の精神を提唱し、国連総会の演説でもこれに触れている。
日本国の首相としては珍しいことである。
しかし、この点については、わが国の世論はよく意味がわからないとか、主張としては弱いのではないか等と評価しているようである。
ところで仏教の説く慈悲の心と友愛の精神は通じるものがあると思う。
というのは、慈の原語であるパーリ語の
「メーターという語はミッタ(友)からつくられたもので、真実の友情を意味する」(中村元著『仏教語大辞典』)
と説明されているからである。
はなはだ抹香くさそうなことばも、もともとははつらつとした精神から発していたようで、うれしくなる。
仏弟子アナリツの逸話を思い浮かべる。
アナリツは晩年に目が不自由になった。
やぶけた衣を縫おうとするのだが針に糸を通すことができない。
そこで困ったアナリツは「誰か私のためにこの針に糸を通してはいただけないだろうか」と呼びかけた。
すると「私が糸を通してあげよう」と答える声が響いた。
それはアナリツの師匠のお釈迦さまの声だった。
原始仏教教団は修行者同士の友情の精神にあふれていたことを物語る逸話である。
困っている人をごく自然に助ける、これが友愛の精神と理解してまちがいないだろう。
そしてこのごく自然な人の心が今ほど失われている時代もないのである。
仏教徒は慈悲の心を再認識すべきだろう。
9月21日は法華経を信仰した宮沢賢治の命日であった。
それを記念して、ダムの流量を調節して、賢治命名の北上川のイギリス海岸が一日だけ姿を現したそうだ。
彼の「雨ニモマケズ」は慈悲、友愛の精神を発揮したすばらしいことばだと思う。
日本国の首相としては珍しいことである。
しかし、この点については、わが国の世論はよく意味がわからないとか、主張としては弱いのではないか等と評価しているようである。
ところで仏教の説く慈悲の心と友愛の精神は通じるものがあると思う。
というのは、慈の原語であるパーリ語の
「メーターという語はミッタ(友)からつくられたもので、真実の友情を意味する」(中村元著『仏教語大辞典』)
と説明されているからである。
はなはだ抹香くさそうなことばも、もともとははつらつとした精神から発していたようで、うれしくなる。
仏弟子アナリツの逸話を思い浮かべる。
アナリツは晩年に目が不自由になった。
やぶけた衣を縫おうとするのだが針に糸を通すことができない。
そこで困ったアナリツは「誰か私のためにこの針に糸を通してはいただけないだろうか」と呼びかけた。
すると「私が糸を通してあげよう」と答える声が響いた。
それはアナリツの師匠のお釈迦さまの声だった。
原始仏教教団は修行者同士の友情の精神にあふれていたことを物語る逸話である。
困っている人をごく自然に助ける、これが友愛の精神と理解してまちがいないだろう。
そしてこのごく自然な人の心が今ほど失われている時代もないのである。
仏教徒は慈悲の心を再認識すべきだろう。
9月21日は法華経を信仰した宮沢賢治の命日であった。
それを記念して、ダムの流量を調節して、賢治命名の北上川のイギリス海岸が一日だけ姿を現したそうだ。
彼の「雨ニモマケズ」は慈悲、友愛の精神を発揮したすばらしいことばだと思う。
2009年09月03日(Thu)
政権交代
総選挙で政権交代が現実のこととなった。
団塊世代の一人として、1960年代末の新宿騒乱事件以上の事態が全国的に、しかも靜に起こったのだ、という感慨を持つ。
どうして、こんなことが起こったのか、については昨日から今日にかけて多くの人がさまざまに発言している。
私はこの夏、村上春樹の作品を読んですごした。
あの『1Q84』をきっかけに、まわりの若い人たちに勧められて、初期の作品から目を通した。その一冊に地下鉄サリン事件を論じた『アンダーグラウンド』がある。
そのあとがきに村上氏は次のように記している。
『ねじまき鳥クロニクル』という小説を書くために以前、一九三九年の「ノモンハン戦争(事件)」の綿密なリサーチをしたことがあるが、資料を調べれば調べるほど、その当時の帝国陸軍の運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしまった。
どうしてこのような無意味な悲劇が、歴史の中でむなしく看過されてしまったのだろうと。でも今回の地下鉄サリン事件の取材を通じて、私が経験したこのような閉塞的、責任回避型の社会体質は、実のところ当時の帝国陸軍の体質とたいして変わっていないのだ。(720頁)
おそらく、現在の国民の多くがわが国の「運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしま」い、「閉塞的、責任回避型の社会体質」に愛想をつかして、今回の政権交代という未曾有の出来事となったのではないか、と私は思っている。
私事になるが、約四年前、家内が交通事故を原因とする「脳脊髄液減少症」という病気にかかった。
幸い診断と手術と治療が功を奏して現在は以前の生活を取り戻し、健康的な普通の日常を送っている。
しかし、損害保険会社がこの病気と交通事故との因果関係を認めず、手術・治療費の支払いを拒否しているために、いまだ係争中である。
この間、どれだけの回数、どれだけの資料が行き来したことか。
被害者の苦痛にはまったく関心がないようである。
私も、厚労省や損保、そしてその担当者、加害者側の弁護士をふくめた今の社会の「運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしまった」。
薬害肝炎の被害者として立候補して当選した福田衣里子さんが昨日、「弱いものが踏みにじられていく社会を変えたい」という趣旨の発言をされていた。
同感だ。
与党、野党を問わず、弱い立場にあるものを守る政治をしていただきたい。
それに、ほんとうにやる気があるのなら、鳩山さん、オバマ大統領のように、すこしは、考えぬいた言葉で、格好良く発言をしていただきたいと思う。
それがリーダーの役割ではないか。
団塊世代の一人として、1960年代末の新宿騒乱事件以上の事態が全国的に、しかも靜に起こったのだ、という感慨を持つ。
どうして、こんなことが起こったのか、については昨日から今日にかけて多くの人がさまざまに発言している。
私はこの夏、村上春樹の作品を読んですごした。
あの『1Q84』をきっかけに、まわりの若い人たちに勧められて、初期の作品から目を通した。その一冊に地下鉄サリン事件を論じた『アンダーグラウンド』がある。
そのあとがきに村上氏は次のように記している。
『ねじまき鳥クロニクル』という小説を書くために以前、一九三九年の「ノモンハン戦争(事件)」の綿密なリサーチをしたことがあるが、資料を調べれば調べるほど、その当時の帝国陸軍の運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしまった。
どうしてこのような無意味な悲劇が、歴史の中でむなしく看過されてしまったのだろうと。でも今回の地下鉄サリン事件の取材を通じて、私が経験したこのような閉塞的、責任回避型の社会体質は、実のところ当時の帝国陸軍の体質とたいして変わっていないのだ。(720頁)
おそらく、現在の国民の多くがわが国の「運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしま」い、「閉塞的、責任回避型の社会体質」に愛想をつかして、今回の政権交代という未曾有の出来事となったのではないか、と私は思っている。
私事になるが、約四年前、家内が交通事故を原因とする「脳脊髄液減少症」という病気にかかった。
幸い診断と手術と治療が功を奏して現在は以前の生活を取り戻し、健康的な普通の日常を送っている。
しかし、損害保険会社がこの病気と交通事故との因果関係を認めず、手術・治療費の支払いを拒否しているために、いまだ係争中である。
この間、どれだけの回数、どれだけの資料が行き来したことか。
被害者の苦痛にはまったく関心がないようである。
私も、厚労省や損保、そしてその担当者、加害者側の弁護士をふくめた今の社会の「運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしまった」。
薬害肝炎の被害者として立候補して当選した福田衣里子さんが昨日、「弱いものが踏みにじられていく社会を変えたい」という趣旨の発言をされていた。
同感だ。
与党、野党を問わず、弱い立場にあるものを守る政治をしていただきたい。
それに、ほんとうにやる気があるのなら、鳩山さん、オバマ大統領のように、すこしは、考えぬいた言葉で、格好良く発言をしていただきたいと思う。
それがリーダーの役割ではないか。
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