2010年04月26日(Mon)
今月の聖語[平成二十二年四月]
平成二十二年四月の聖語をご紹介します。
=解説=「必死の教導」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
宗教に迫害がおよぶことは古来の歴史が示すとおりである。日蓮聖人の教団も例外ではないばかりか、もっとも過酷な迫害にあけくれたのであって、酸鼻な教団史を形成している。
日蓮聖人も門弟達も、血を流し、はては殺されていった。もとより弾圧は、単にいやがらせではない。棄教を要求し、転向を強いる。かくれみのはない。退転なくば死である。それを知ってそれを乗り越える力、それは信であり、そのゆえにいっそう純潔の信たらざるを得ない。後生の大楽、死後の浄福。これ信あるものの力である。
弘安二年十月一日夜ご執筆『聖人御難事』は、駿河熱原の地の門弟に加えられた国権弾圧「熱原法難」渦中の書状。急迫昂進する事件の真っ只中にあって受難の門弟に伝言された奮起激励の檄文である。無法な迫害下に身をさらす門弟への憐憫。不法な加圧者国家権力への激怒。『聖人御難事』は重書である。後世の我ら『聖人御難事』を読むべし。引文「当時」は、当座・そのとき。漢字「痛」は、原本はかな文字。
=解説=「必死の教導」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
宗教に迫害がおよぶことは古来の歴史が示すとおりである。日蓮聖人の教団も例外ではないばかりか、もっとも過酷な迫害にあけくれたのであって、酸鼻な教団史を形成している。
日蓮聖人も門弟達も、血を流し、はては殺されていった。もとより弾圧は、単にいやがらせではない。棄教を要求し、転向を強いる。かくれみのはない。退転なくば死である。それを知ってそれを乗り越える力、それは信であり、そのゆえにいっそう純潔の信たらざるを得ない。後生の大楽、死後の浄福。これ信あるものの力である。
弘安二年十月一日夜ご執筆『聖人御難事』は、駿河熱原の地の門弟に加えられた国権弾圧「熱原法難」渦中の書状。急迫昂進する事件の真っ只中にあって受難の門弟に伝言された奮起激励の檄文である。無法な迫害下に身をさらす門弟への憐憫。不法な加圧者国家権力への激怒。『聖人御難事』は重書である。後世の我ら『聖人御難事』を読むべし。引文「当時」は、当座・そのとき。漢字「痛」は、原本はかな文字。
2010年02月02日(Tue)
今月の聖語[平成二十二年二月]
平成二十二年二月の聖語をご紹介します。
=解説=「諸天の加護」 文永九年(一二七二年 聖寿五十一歳)
「文永八年の法難」は、日蓮聖人五十歳の秋・冬に起こった。それは日蓮聖人ご自身と門弟たちに加えられた鎌倉幕府つまり国家権力からの巨大な弾圧事件の総称である。国権は日蓮聖人の教団を根こそぎ消滅せんと謀った。教団殲滅を企てた国権発動は、文永八年九月十二日の「日蓮逮捕」。その深夜、刑場龍ノ口で断行し、失敗に終わった死刑未遂事件「龍口法難」。斬首不履行によって翌十月決行された死島佐渡への島流し「佐渡法難」。弟子たちの捕縛投獄。信徒多数への様々な迫害加圧、それは財産没収・親子主従関係の義絶・制裁金徴収などなど。師弟一同に弾圧の嵐が吹き荒れた。それが「文永八年の法難」であった。教団は壊滅させられたのである。
流人の身を佐渡の雪中にすごす日蓮聖人は、懸命の筆業に従事され、畢生(ひっせい)の大作『開目抄』を擱筆(かくひつ)された。文永九年二月のことである。『開目抄』は門弟への遺言の書・かたみの書であった。万苦を忍び死と引き換える留魂(るこん)の大著であった。
四面楚歌のただ中にあって日蓮聖人は絶対の救済・安心を確信されていた。そのような日蓮聖人の魂が発する門弟たちへの救いと安らぎの叫び、それが「天の加護なき事を疑わざれ」であった。『開目抄』中に充満する佳句・至言・慈教のその一語である。
「天」とは十界の一つ天上界(天界)にあって仏法守護を誓願とする神々をいう。諸(もろもろ)の天の神々、諸天(しょてん)善神(ぜんしん)はことに法華経信奉者の守護を責務とされる。すなわち日蓮聖人は門弟たちに「天の加護」必然・必来をいいさとしたのであった。それは絶対の確言であった。
=解説=「諸天の加護」 文永九年(一二七二年 聖寿五十一歳)
「文永八年の法難」は、日蓮聖人五十歳の秋・冬に起こった。それは日蓮聖人ご自身と門弟たちに加えられた鎌倉幕府つまり国家権力からの巨大な弾圧事件の総称である。国権は日蓮聖人の教団を根こそぎ消滅せんと謀った。教団殲滅を企てた国権発動は、文永八年九月十二日の「日蓮逮捕」。その深夜、刑場龍ノ口で断行し、失敗に終わった死刑未遂事件「龍口法難」。斬首不履行によって翌十月決行された死島佐渡への島流し「佐渡法難」。弟子たちの捕縛投獄。信徒多数への様々な迫害加圧、それは財産没収・親子主従関係の義絶・制裁金徴収などなど。師弟一同に弾圧の嵐が吹き荒れた。それが「文永八年の法難」であった。教団は壊滅させられたのである。
流人の身を佐渡の雪中にすごす日蓮聖人は、懸命の筆業に従事され、畢生(ひっせい)の大作『開目抄』を擱筆(かくひつ)された。文永九年二月のことである。『開目抄』は門弟への遺言の書・かたみの書であった。万苦を忍び死と引き換える留魂(るこん)の大著であった。
四面楚歌のただ中にあって日蓮聖人は絶対の救済・安心を確信されていた。そのような日蓮聖人の魂が発する門弟たちへの救いと安らぎの叫び、それが「天の加護なき事を疑わざれ」であった。『開目抄』中に充満する佳句・至言・慈教のその一語である。
「天」とは十界の一つ天上界(天界)にあって仏法守護を誓願とする神々をいう。諸(もろもろ)の天の神々、諸天(しょてん)善神(ぜんしん)はことに法華経信奉者の守護を責務とされる。すなわち日蓮聖人は門弟たちに「天の加護」必然・必来をいいさとしたのであった。それは絶対の確言であった。
2010年01月14日(Thu)
今月の聖語[平成二十二年一月]
平成二十二年一月の聖語をご紹介します。
=解説=「重々の策励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出前文に「彼等には、ただ一円に思い切れ」とある。日蓮聖人は断固たる決断を要請されたのであった。更に続く「ひだるしと思わば餓鬼道を教えよ。寒しといわば八寒地獄を教えよ。恐ろしといわば鷹にあえる雉、猫にあえる鼠を他人とおもう事なかれ。」と。
彼等とは、駿河熱原の日蓮聖人の信徒群で農民たち二十名。「日蓮帰依」を憎んだ鎌倉幕府執権北条時宗の腹心で、侍所所司(次官)平頼綱は「日蓮門下」に不当な暴圧を久しく加え、ついに信徒群を捕縛し、鎌倉に連行した。頼綱は私邸で彼等を拷問し、その果てに三人をみせしめに虐殺するにいたる。捕縛連行の急報に接した日蓮聖人は門弟に指示。弘安二年十月一日付この状がそれである。事件「熱原法難」は、国権介入の不当な弾圧であり暴挙であった。
日蓮聖人は渾身の気迫を込め必死の教示書の筆をふるった。頼綱の狂気的加害を充分予測し得たから、日蓮聖人はまことに厳しいぎりぎりの言葉を費やし、策励されたのであった。
=解説=「重々の策励」 弘安二年(一二七九年 聖寿五十八歳)
掲出前文に「彼等には、ただ一円に思い切れ」とある。日蓮聖人は断固たる決断を要請されたのであった。更に続く「ひだるしと思わば餓鬼道を教えよ。寒しといわば八寒地獄を教えよ。恐ろしといわば鷹にあえる雉、猫にあえる鼠を他人とおもう事なかれ。」と。
彼等とは、駿河熱原の日蓮聖人の信徒群で農民たち二十名。「日蓮帰依」を憎んだ鎌倉幕府執権北条時宗の腹心で、侍所所司(次官)平頼綱は「日蓮門下」に不当な暴圧を久しく加え、ついに信徒群を捕縛し、鎌倉に連行した。頼綱は私邸で彼等を拷問し、その果てに三人をみせしめに虐殺するにいたる。捕縛連行の急報に接した日蓮聖人は門弟に指示。弘安二年十月一日付この状がそれである。事件「熱原法難」は、国権介入の不当な弾圧であり暴挙であった。
日蓮聖人は渾身の気迫を込め必死の教示書の筆をふるった。頼綱の狂気的加害を充分予測し得たから、日蓮聖人はまことに厳しいぎりぎりの言葉を費やし、策励されたのであった。