2008年09月05日(Fri)
今月の聖語[平成二十年九月]
平成二十年九月の聖語をご紹介します。
=解説=「試練」 (一二七二年文永九年 聖寿五十一歳)
名刀は鍛えれば鍛えるほど、打てば打つほど出来栄えは見事である。歴史に名をとどめる賢人(けんじん)・聖人(せいじん)も悪口(あっく)雑言(ぞうごん)・罵詈(めり)誹謗(ひぼう)の嵐に耐え、それを試練として自己を磨いていった。悪口(あっく)罵詈(めり)のみならず刀杖(とうじょう)瓦礫(がりゃく)、流(る)罪(ざい)死(し)罪(ざい)がたえまなく見(み)舞(ま)い、それをばねとし試験台(しけんだい)として飛躍(ひやく)していったのが日蓮聖人の歩みであられた。
だからこそ、迫害者(はくがいしゃ)を己を磨き鍛える善知識(ぜんちしき)と言(い)ったのであるが、それは同時(どうじ)に先(せん)業(ごう)の重(じゅう)罪(ざい)を今生(こんじょう)の大難(だいなん)甘受(かんじゅ)を通(とお)して消(しょう)去(きょ)し、未来(みらい)の大苦(だいく)を軽(かる)からしめるという「転(てん)重軽受(じゅうきょうじゅ)」の教(おし)えを踏(ふ)み行(ゆ)くものであった。だから、困苦迫害に身をさらされた歩みは歎き(なげ)ではなかった、との回想の言葉を残されもしたのであった。
=解説=「試練」 (一二七二年文永九年 聖寿五十一歳)
名刀は鍛えれば鍛えるほど、打てば打つほど出来栄えは見事である。歴史に名をとどめる賢人(けんじん)・聖人(せいじん)も悪口(あっく)雑言(ぞうごん)・罵詈(めり)誹謗(ひぼう)の嵐に耐え、それを試練として自己を磨いていった。悪口(あっく)罵詈(めり)のみならず刀杖(とうじょう)瓦礫(がりゃく)、流(る)罪(ざい)死(し)罪(ざい)がたえまなく見(み)舞(ま)い、それをばねとし試験台(しけんだい)として飛躍(ひやく)していったのが日蓮聖人の歩みであられた。
だからこそ、迫害者(はくがいしゃ)を己を磨き鍛える善知識(ぜんちしき)と言(い)ったのであるが、それは同時(どうじ)に先(せん)業(ごう)の重(じゅう)罪(ざい)を今生(こんじょう)の大難(だいなん)甘受(かんじゅ)を通(とお)して消(しょう)去(きょ)し、未来(みらい)の大苦(だいく)を軽(かる)からしめるという「転(てん)重軽受(じゅうきょうじゅ)」の教(おし)えを踏(ふ)み行(ゆ)くものであった。だから、困苦迫害に身をさらされた歩みは歎き(なげ)ではなかった、との回想の言葉を残されもしたのであった。
2008年08月01日(Fri)
今月の聖語[平成二十年八月]
平成二十年八月の聖語をご紹介します。
=解説=「善苗(ぜんみょう)下種(げしゅ)」 (一二五九年正元元年聖寿三十八歳)
世事はこの世のことども。この世は俗世。俗世間の諸事百般は多くはとりとめのない無価の事柄。俗事にかまけ、世間になずみ、ふりまわされて一生を終えるのが一般。このことは、在俗の人も仏道に入っている僧も、道俗あわせ通同だ。僧もまた俗の俗たる人と成り下がっているからだ。
だから要するにすべての人よ、まず何よりもこの世一時の俗事を止めて、心の種まきにいそしみ、永劫不変の善き苗を植え育てよう。善苗(ぜんみょう)とは仏種(ぶっしゅ)である。尊貴(そんき)な仏教をわれらの心田(しんでん)に植え、仏を目指し仏となることに励もう。それが仏教徒のふるまい、仕業(しわざ)である。
今この論策は日蓮の私言ではなく、経・論にもとづいての仏説である。自義ではない。客観視してさばいてほしい。
=解説=「善苗(ぜんみょう)下種(げしゅ)」 (一二五九年正元元年聖寿三十八歳)
世事はこの世のことども。この世は俗世。俗世間の諸事百般は多くはとりとめのない無価の事柄。俗事にかまけ、世間になずみ、ふりまわされて一生を終えるのが一般。このことは、在俗の人も仏道に入っている僧も、道俗あわせ通同だ。僧もまた俗の俗たる人と成り下がっているからだ。
だから要するにすべての人よ、まず何よりもこの世一時の俗事を止めて、心の種まきにいそしみ、永劫不変の善き苗を植え育てよう。善苗(ぜんみょう)とは仏種(ぶっしゅ)である。尊貴(そんき)な仏教をわれらの心田(しんでん)に植え、仏を目指し仏となることに励もう。それが仏教徒のふるまい、仕業(しわざ)である。
今この論策は日蓮の私言ではなく、経・論にもとづいての仏説である。自義ではない。客観視してさばいてほしい。
2008年07月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十年七月]
平成二十年七月の聖語をご紹介します。
=解説=「喫緊(きっきん)の課題(かだい)」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
日蓮聖人は、十二歳清澄寺(せいちょうじ)に登って仏教の修学に着手。四年後の十六歳、髪を剃り落として出家、是聖房(ぜしょうぼう)と名乗られた。登山につぐ第二の転機は仏弟子としての道を歩むことであった。四年間の基礎学の修得を卒(お)えてさらなる修学の志望をかきたて出家の道へと日蓮聖人をいざなった動機はいくつか知られる。
その主要で決定的であったのは無常観であり、人生無常苦・死の超克の問題であった。死は人生苦の集約であり、争乱にあけくれる中世のただ中に生きられた日蓮聖人は、そのことを日々に実感されたのである。そこから臨終の大事を解決することが何にも勝る優先課題、先決問題である、と思い定められた。
=解説=「喫緊(きっきん)の課題(かだい)」 (一二七八年弘安元年聖寿五十七歳)
日蓮聖人は、十二歳清澄寺(せいちょうじ)に登って仏教の修学に着手。四年後の十六歳、髪を剃り落として出家、是聖房(ぜしょうぼう)と名乗られた。登山につぐ第二の転機は仏弟子としての道を歩むことであった。四年間の基礎学の修得を卒(お)えてさらなる修学の志望をかきたて出家の道へと日蓮聖人をいざなった動機はいくつか知られる。
その主要で決定的であったのは無常観であり、人生無常苦・死の超克の問題であった。死は人生苦の集約であり、争乱にあけくれる中世のただ中に生きられた日蓮聖人は、そのことを日々に実感されたのである。そこから臨終の大事を解決することが何にも勝る優先課題、先決問題である、と思い定められた。