2008年10月14日(Tue)
老病死のこと
先日、俳優の緒方拳(70)が亡くなり、続いて俳優・峰岸徹(65)が亡くなった。
どちらもテレビをとおしてこれまで身近に感じていた俳優だった。
とくに緒方は東京オリンピックの年に大河ドラマ「太閤記」で一躍有名になり、印象深い。
若いときからテレビで親しんでいた俳優が亡くなると、自分の運命を見せられているようで、寒々とした思いに襲われる。
人の老病死は言うまでもなく釈尊出家の原因となった。
だから、この問題は充分念頭にあった。
しかし若いときは言うまでもなく、四十代、五十代においても本当のところ、それは他人事だったのだと思う。
しかし、六十代になるや、老病死はまさに自分の問題となった。
前回述べたように、私は私小説作家・上林暁の作品に親しんでいる。
明治35年に高知県に生まれ、東大英文科を卒業し、出版社に勤めながら、作家になった。
学生時代の思い出で、「法華経の行者日蓮」の著者として私には馴染み深い姉崎正治博士にふれて、
「大学で一番英語のうまいのはドクターAでした。ドクターAは宗教の教授でしたが、図書館長をかねていました。彼の英語はなめらかで、ソフトでした。」(『ジョン・クレアの詩集』)
と書いている。その上林は早く妻を病気で失い、自身も脳卒中をわずらい、病と闘いながら多くの作品を仕上げているために、目をそむけたくなるような老病死の実態をことこまかく描いている。
これから、このような老病死を自ら体験しなければならないとは、これは大変なことだ、とおそまきながら震えているのだ。情けないことである。
明日15日は年金が支給され、後期高齢者医療費が天引きされるとのこと。
どうか余計な不安を与えないように、この国の関係機関は努力してもらいたい。
もちろん、宗教者がそのために努力しなければならないことはあたりまえである。
どちらもテレビをとおしてこれまで身近に感じていた俳優だった。
とくに緒方は東京オリンピックの年に大河ドラマ「太閤記」で一躍有名になり、印象深い。
若いときからテレビで親しんでいた俳優が亡くなると、自分の運命を見せられているようで、寒々とした思いに襲われる。
人の老病死は言うまでもなく釈尊出家の原因となった。
だから、この問題は充分念頭にあった。
しかし若いときは言うまでもなく、四十代、五十代においても本当のところ、それは他人事だったのだと思う。
しかし、六十代になるや、老病死はまさに自分の問題となった。
前回述べたように、私は私小説作家・上林暁の作品に親しんでいる。
明治35年に高知県に生まれ、東大英文科を卒業し、出版社に勤めながら、作家になった。
学生時代の思い出で、「法華経の行者日蓮」の著者として私には馴染み深い姉崎正治博士にふれて、
「大学で一番英語のうまいのはドクターAでした。ドクターAは宗教の教授でしたが、図書館長をかねていました。彼の英語はなめらかで、ソフトでした。」(『ジョン・クレアの詩集』)
と書いている。その上林は早く妻を病気で失い、自身も脳卒中をわずらい、病と闘いながら多くの作品を仕上げているために、目をそむけたくなるような老病死の実態をことこまかく描いている。
これから、このような老病死を自ら体験しなければならないとは、これは大変なことだ、とおそまきながら震えているのだ。情けないことである。
明日15日は年金が支給され、後期高齢者医療費が天引きされるとのこと。
どうか余計な不安を与えないように、この国の関係機関は努力してもらいたい。
もちろん、宗教者がそのために努力しなければならないことはあたりまえである。
2008年10月09日(Thu)
宗教法人のすきま活動
9月3日に日蓮宗宗務院講堂で社会教化事業講習会があった。
その報告書を眼にする機会があり、立正大学清水海隆師が「社会における宗教法人の公益性」と題する講演のなかで提起した「すきま活動の実践を」には、私の経験からおおいに共感した。
清水師は「寺院が公益性を発揮するには、行政には公平性や一律性が求められるため受けて側に自ずとすきまが生じる。そこでできたすきまを補うことで公益性が発揮できるのではないか」と提案されている。
私の経験とは、家内の交通事故である。
私の家内は約三年前、交差点で信号待ちをしているときに追突され「頚椎捻挫7日間」と診断された。ところが3ヶ月たっても4ヶ月たっても頚椎の痛みは増すばかりで改善しなかった。
そこで違う病院を受診したところ「脳脊髄液減少症」と診断された。
そこで2回の手術を含め治療に専念し、事故から2ヵ年あまりが経過してやっと日常生活に支障がないところまで回復した。
ところがこの「脳脊髄液減少症」という病気は厚労省が病気として認定していないことから、これまでも損害保険会社とは不愉快な交渉を長く続けていたのであるが、やはり治療費等は支払いを拒否するという通知を受けたのである。
このなんとしても納得できない非常に不条理で不愉快な経験のなかで、私と家内はこの3年間まさに社会に口を開けている「すきま」に落ち込んでもがき苦しんだという思いを味わった。
いざとなったらなかなか相談するところはないものである。
行政の相談所はおざなりでまったく役には立たなかった。
この病気について承知している弁護士もいなかった。
厚労省が認定していないことから、損保会社の対応はまったく冷たく、人の生命にかかわる仕事に従事している企業とは思えなかった。
おそらく会社の理念を忘れ、収益の運用にしか興味がないのではないのか。
また伝え聞いたところでは、被害者であるこの病気の患者を裁判沙汰に持ち込むこともままあるようだ。厚労省にいたっては厚労省の認めないこの病気の治療に一生懸命になっているある国立医療センターの医療部門を廃止にしてやるといきまいたという。
まさに行政と国民との間には大きな大きな「すきま」が口を開けているのである。
この「すきま」に落ち込んで苦しんでいる人の相談相手になるのは、寺院の活動としてまことにふさわしいと思う。
原爆症の認定や肝炎の認定問題だけでもたいへんだが、それらは氷山の一角である。
マスコミにも取り上げられず、行政や企業を相手に孤独な戦いをしている人は我々の檀信徒のなかにもきっといるはずである。
「すきま」に落ち込んだ人に手を差し伸べようではないか。
その報告書を眼にする機会があり、立正大学清水海隆師が「社会における宗教法人の公益性」と題する講演のなかで提起した「すきま活動の実践を」には、私の経験からおおいに共感した。
清水師は「寺院が公益性を発揮するには、行政には公平性や一律性が求められるため受けて側に自ずとすきまが生じる。そこでできたすきまを補うことで公益性が発揮できるのではないか」と提案されている。
私の経験とは、家内の交通事故である。
私の家内は約三年前、交差点で信号待ちをしているときに追突され「頚椎捻挫7日間」と診断された。ところが3ヶ月たっても4ヶ月たっても頚椎の痛みは増すばかりで改善しなかった。
そこで違う病院を受診したところ「脳脊髄液減少症」と診断された。
そこで2回の手術を含め治療に専念し、事故から2ヵ年あまりが経過してやっと日常生活に支障がないところまで回復した。
ところがこの「脳脊髄液減少症」という病気は厚労省が病気として認定していないことから、これまでも損害保険会社とは不愉快な交渉を長く続けていたのであるが、やはり治療費等は支払いを拒否するという通知を受けたのである。
このなんとしても納得できない非常に不条理で不愉快な経験のなかで、私と家内はこの3年間まさに社会に口を開けている「すきま」に落ち込んでもがき苦しんだという思いを味わった。
いざとなったらなかなか相談するところはないものである。
行政の相談所はおざなりでまったく役には立たなかった。
この病気について承知している弁護士もいなかった。
厚労省が認定していないことから、損保会社の対応はまったく冷たく、人の生命にかかわる仕事に従事している企業とは思えなかった。
おそらく会社の理念を忘れ、収益の運用にしか興味がないのではないのか。
また伝え聞いたところでは、被害者であるこの病気の患者を裁判沙汰に持ち込むこともままあるようだ。厚労省にいたっては厚労省の認めないこの病気の治療に一生懸命になっているある国立医療センターの医療部門を廃止にしてやるといきまいたという。
まさに行政と国民との間には大きな大きな「すきま」が口を開けているのである。
この「すきま」に落ち込んで苦しんでいる人の相談相手になるのは、寺院の活動としてまことにふさわしいと思う。
原爆症の認定や肝炎の認定問題だけでもたいへんだが、それらは氷山の一角である。
マスコミにも取り上げられず、行政や企業を相手に孤独な戦いをしている人は我々の檀信徒のなかにもきっといるはずである。
「すきま」に落ち込んだ人に手を差し伸べようではないか。
2008年10月01日(Wed)
但行礼拝の精神
上林暁(かんばやし あかつき)(1902〜1980)という作家がいる。
この夏、暑さをさけて志賀直哉をよみふけり、その次に誰かを読みたいと思い、たまたま出会った小説が上林暁の書いたものだった。文庫本にも収録されていないし、すべて絶版のようだから一般には知られていないと思う。
青山二郎の装丁に心惹かれて古書店でもとめた昭和21年9月発行の小説集『晩春日記』が私の始めて読む氏の作品であった。作品の中に記されている太平洋戦争末期の東京での生活の様子に最初は興味をもった。その中の一編「現世図絵」にはふだんよく歩く新宿あたりが、次のように描かれている。
新宿駅は、土嚢で固められていました。汽車の切符を買う人が、何重にも列を作っていました。駅の前の建物は、疎開のため取り払われていて、高野果物店まで見通しでした。(原文は旧仮名遣い)
現在の新宿アルタ周辺を思い浮かべると感無量。
さて、上林氏は戦争末期の食糧難に加えて、精神を病む奥さんの介護という重荷をもしのがなければならなかった。私小説作家である上林氏はその経過を作品に克明に記している。その文章が私の心を突く。
「聖ヨハネ病院にて」という作品は、その奥さんの最期のようすを描いたものである。その中に私の心に残った次のような一節がある。
道は遠きに求むるに及ばず、また信仰は神に馮る必要はない。自分の身近には、妻という廃人同様の人間が居るではないか。眼も見えなければ、頭も狂っていて、その苦痛をすら自覚しない人間が居るではないか。この人間を神と見立ててはいけないだろうか。この人間のために、もっともっとやさしく‥
と述べられている。
敗戦前後の苦しい生活の中で、よくもこのように考えられたものである。一人の身近な人間に真心を尽くすことができたものである。
今、宗門運動の中で「但行礼拝の実践」が提唱されている。
上林氏のように、まずは身近な一人にやさしく、から心がけたいと思う。
この夏、暑さをさけて志賀直哉をよみふけり、その次に誰かを読みたいと思い、たまたま出会った小説が上林暁の書いたものだった。文庫本にも収録されていないし、すべて絶版のようだから一般には知られていないと思う。
青山二郎の装丁に心惹かれて古書店でもとめた昭和21年9月発行の小説集『晩春日記』が私の始めて読む氏の作品であった。作品の中に記されている太平洋戦争末期の東京での生活の様子に最初は興味をもった。その中の一編「現世図絵」にはふだんよく歩く新宿あたりが、次のように描かれている。
新宿駅は、土嚢で固められていました。汽車の切符を買う人が、何重にも列を作っていました。駅の前の建物は、疎開のため取り払われていて、高野果物店まで見通しでした。(原文は旧仮名遣い)
現在の新宿アルタ周辺を思い浮かべると感無量。
さて、上林氏は戦争末期の食糧難に加えて、精神を病む奥さんの介護という重荷をもしのがなければならなかった。私小説作家である上林氏はその経過を作品に克明に記している。その文章が私の心を突く。
「聖ヨハネ病院にて」という作品は、その奥さんの最期のようすを描いたものである。その中に私の心に残った次のような一節がある。
道は遠きに求むるに及ばず、また信仰は神に馮る必要はない。自分の身近には、妻という廃人同様の人間が居るではないか。眼も見えなければ、頭も狂っていて、その苦痛をすら自覚しない人間が居るではないか。この人間を神と見立ててはいけないだろうか。この人間のために、もっともっとやさしく‥
と述べられている。
敗戦前後の苦しい生活の中で、よくもこのように考えられたものである。一人の身近な人間に真心を尽くすことができたものである。
今、宗門運動の中で「但行礼拝の実践」が提唱されている。
上林氏のように、まずは身近な一人にやさしく、から心がけたいと思う。