2009年06月04日(Thu)
今月の聖語[平成二十一年六月]
平成二十一年六月の聖語をご紹介します。
=解説=「純信の果報」 建治元年(一二七五年聖寿五十四歳)
掲出分の前には、「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。
いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれる事を。」とある。
冬来たりなば春遠からじ。冬は春の先触れ。冬と春は直結し逆行はあり得ない。季節の推移が不変のように、法華経信奉者は必ず成仏し、凡庸(ぼんよう)浅識(せんしき)のおろか者、つまり凡夫にはもどらない。それは、「法華経を聞く人は一人として成仏しない者はない」と説かれているからである。掲出文は後続して、「経文には若有聞法者無一不成仏と説かれて候」とある。経文は、法華経方便品第二の句。救済の絶対性をあかしたことばである。冬は春に、信は仏にそれぞれ直結して例外はない。ただし、冬は峻厳(しゅんげん)。それゆえ冬の信は純信(じゅんしん)厳正(げんせい)なのである。
=解説=「純信の果報」 建治元年(一二七五年聖寿五十四歳)
掲出分の前には、「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。
いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれる事を。」とある。
冬来たりなば春遠からじ。冬は春の先触れ。冬と春は直結し逆行はあり得ない。季節の推移が不変のように、法華経信奉者は必ず成仏し、凡庸(ぼんよう)浅識(せんしき)のおろか者、つまり凡夫にはもどらない。それは、「法華経を聞く人は一人として成仏しない者はない」と説かれているからである。掲出文は後続して、「経文には若有聞法者無一不成仏と説かれて候」とある。経文は、法華経方便品第二の句。救済の絶対性をあかしたことばである。冬は春に、信は仏にそれぞれ直結して例外はない。ただし、冬は峻厳(しゅんげん)。それゆえ冬の信は純信(じゅんしん)厳正(げんせい)なのである。
2009年05月07日(Thu)
今月の聖語[平成二十一年五月]
平成二十一年五月の聖語をご紹介します。
=解説=「即身成仏」 弘安四年(一二八一年聖寿六十歳)
現在の肉身のままでただちに成仏する、これが即身成仏(現身成仏、現生成仏、一生成仏ともいう)。日蓮聖人の教説は、唱題受持によって成仏を決するので唱題成仏、受持成仏ともいう。「蓮華と申す花は菓と花と同時なり」と花果同時の特性を述べるが、一般には「前華後菓と申して華は前、菓は後なり」。しかし蓮華は同時。このことにこと寄せて、即身成仏の法門をあかし、法華経信仰は、華果同時の蓮華のようであるといい、あるいは音と響きは同時であるようにと、譬話を重ね、法華経信仰、唱題による凡夫即身成仏の証明を簡明に、また卑近に日蓮聖人は明かされる。
=解説=「即身成仏」 弘安四年(一二八一年聖寿六十歳)
現在の肉身のままでただちに成仏する、これが即身成仏(現身成仏、現生成仏、一生成仏ともいう)。日蓮聖人の教説は、唱題受持によって成仏を決するので唱題成仏、受持成仏ともいう。「蓮華と申す花は菓と花と同時なり」と花果同時の特性を述べるが、一般には「前華後菓と申して華は前、菓は後なり」。しかし蓮華は同時。このことにこと寄せて、即身成仏の法門をあかし、法華経信仰は、華果同時の蓮華のようであるといい、あるいは音と響きは同時であるようにと、譬話を重ね、法華経信仰、唱題による凡夫即身成仏の証明を簡明に、また卑近に日蓮聖人は明かされる。
2009年04月03日(Fri)
今月の聖語[平成二十一年四月]
平成二十一年四月の聖語をご紹介します。
=解説=「敵こそ味方」 建治元年(一二七五年聖寿五十四歳)
提婆達多は仏陀の従兄弟で弟子だが反逆。新教団を創出して新仏たらんとした。さらに仏陀を殺そうと謀り破門された。釈尊に敵対した教団の破壊者。極悪人の代表である。
非道の仏敵提婆達多は、逆説的に釈尊に味方した。敵こそ味方。釈尊第一の敵こそかえって第一の善知識であった。そのことを「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善智識なれ」の文が掲出文に接して語られる。
世間の例を見てもこのことは言えよう。強敵が人を育て、競争相手がわが身を磨き鍛えるのである。思うに戒心すべきこと、用心しなくてはならぬことは、遠くではなく近くにあるものだ。釈迦に提婆、太子に守屋。毒薬も変じて薬となる。
逆境に身を置きながら奮励これつとめ、味方少なく敵多かった日蓮聖人のしみじみとした述懐の言葉である。
=解説=「敵こそ味方」 建治元年(一二七五年聖寿五十四歳)
提婆達多は仏陀の従兄弟で弟子だが反逆。新教団を創出して新仏たらんとした。さらに仏陀を殺そうと謀り破門された。釈尊に敵対した教団の破壊者。極悪人の代表である。
非道の仏敵提婆達多は、逆説的に釈尊に味方した。敵こそ味方。釈尊第一の敵こそかえって第一の善知識であった。そのことを「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善智識なれ」の文が掲出文に接して語られる。
世間の例を見てもこのことは言えよう。強敵が人を育て、競争相手がわが身を磨き鍛えるのである。思うに戒心すべきこと、用心しなくてはならぬことは、遠くではなく近くにあるものだ。釈迦に提婆、太子に守屋。毒薬も変じて薬となる。
逆境に身を置きながら奮励これつとめ、味方少なく敵多かった日蓮聖人のしみじみとした述懐の言葉である。