2009年01月27日(Tue)
宮沢賢治は先輩
昭和8年宮沢賢治が37歳で亡くなって7年目の昭和14年に詩人の草野心平が編集した『宮沢賢治研究』(十字屋書店)を古書店の棚に見つけた。
高村光太郎や谷川徹三など錚々たる人たちが文章を寄せている。
賢治は没後すぐに有名になったのだ。
詩人・中原中也の文章も収録されていて、彼は賢治の詩集『春と修羅』が出版されて翌年か翌々年に手に入れて「この書は私の愛読書となった。何冊か買って、友人の所へ持って行ったのであった」と述べているから、愛読したのであろう。事実、中也の詩集をひもとくと賢治が多用したことばが使用されている。
古書としてもひどく汚れているこの本を買ったのは、書き込みに興味を持ったからだ。
かつて、この本を購入し所蔵した人がその理由を次のように書いていた。
農科二部(農芸化学科)の先輩賢治に より近づくための一生でありたい為に購ったこの本である
旧蔵者は賢治が学んだ盛岡高等農学校の後輩だったのである。
賢治を教えた関豊太郎も文章を寄せているが、旧蔵者は「恩師」と書き込みをしている。
書き込みのあるこの本をめくっているうちに、昭和10年代が急に身近になった。
すでに日中戦争さなかの日本である。
食糧もしだいに窮乏していたころではないか。
必死に食料増産に取り組んでいたに違いない。
華麗な語彙を多用した賢治の晩年はそうした時代とは無縁ではない。
さて、現代である。
食糧自給率は40%を切り、他に多くの懸案があるにもかかわらず、定額給付金でもめている状況は、あまりにおそまつではないのか。
危機は今、そこに迫っていても気づくことがむずかしい。
農業に取り組んだと思えるこの本の旧蔵者はその後、どのような運命をたどったのだろうか。
私たちにはどのような未来が待っているのか。
高村光太郎や谷川徹三など錚々たる人たちが文章を寄せている。
賢治は没後すぐに有名になったのだ。
詩人・中原中也の文章も収録されていて、彼は賢治の詩集『春と修羅』が出版されて翌年か翌々年に手に入れて「この書は私の愛読書となった。何冊か買って、友人の所へ持って行ったのであった」と述べているから、愛読したのであろう。事実、中也の詩集をひもとくと賢治が多用したことばが使用されている。
古書としてもひどく汚れているこの本を買ったのは、書き込みに興味を持ったからだ。
かつて、この本を購入し所蔵した人がその理由を次のように書いていた。
農科二部(農芸化学科)の先輩賢治に より近づくための一生でありたい為に購ったこの本である
旧蔵者は賢治が学んだ盛岡高等農学校の後輩だったのである。
賢治を教えた関豊太郎も文章を寄せているが、旧蔵者は「恩師」と書き込みをしている。
書き込みのあるこの本をめくっているうちに、昭和10年代が急に身近になった。
すでに日中戦争さなかの日本である。
食糧もしだいに窮乏していたころではないか。
必死に食料増産に取り組んでいたに違いない。
華麗な語彙を多用した賢治の晩年はそうした時代とは無縁ではない。
さて、現代である。
食糧自給率は40%を切り、他に多くの懸案があるにもかかわらず、定額給付金でもめている状況は、あまりにおそまつではないのか。
危機は今、そこに迫っていても気づくことがむずかしい。
農業に取り組んだと思えるこの本の旧蔵者はその後、どのような運命をたどったのだろうか。
私たちにはどのような未来が待っているのか。