2008年12月22日(Mon)
A・ワイエスの絵
渋谷へアンドリュー・ワイエスの絵をみにいった。
ワイエスの絵を見る機会はこれまでもあったのに、見逃していた。
絵は一面の褐色。
印象派の画家たちのカラフルな絵と比べると、暗い。
しかし、これがワイエスの見たアメリカの大地なのだ。
ものの圧倒的な存在感。
ワイエスは画家である父親に絵を習った。
父親は「売れる絵を描け」と若いワイエスに教えたという。
つまり、同時代のアメリカの富豪たちが買いあさった印象派風の絵を描くようにと教えたのだろう。
しかしワイエスは生涯、その暗い画風を変えなかったようだ。
20歳のころの水彩画が展示されていた。
それは数多く展示されている後年の水彩画と何ら変わらない。
最初の絵に後年の絵が存在しているのだ。
人は生涯をかけて「自己」になっていくのではなかろうか。
法華経薬草喩品には「一切の諸樹、上中下等しく、その大小に称(かな)うておのおの生長することを得る」と示されている。
「自己になる」ことは、しかし、いわゆる「自分探し」とは違うと思う。
「自己」を自覚したものは、その実現のために困難な戦いをし続けるほかないからだ。ワイエスの絵はその苦闘を物語っているようだった。
ワイエスの絵を見る機会はこれまでもあったのに、見逃していた。
絵は一面の褐色。
印象派の画家たちのカラフルな絵と比べると、暗い。
しかし、これがワイエスの見たアメリカの大地なのだ。
ものの圧倒的な存在感。
ワイエスは画家である父親に絵を習った。
父親は「売れる絵を描け」と若いワイエスに教えたという。
つまり、同時代のアメリカの富豪たちが買いあさった印象派風の絵を描くようにと教えたのだろう。
しかしワイエスは生涯、その暗い画風を変えなかったようだ。
20歳のころの水彩画が展示されていた。
それは数多く展示されている後年の水彩画と何ら変わらない。
最初の絵に後年の絵が存在しているのだ。
人は生涯をかけて「自己」になっていくのではなかろうか。
法華経薬草喩品には「一切の諸樹、上中下等しく、その大小に称(かな)うておのおの生長することを得る」と示されている。
「自己になる」ことは、しかし、いわゆる「自分探し」とは違うと思う。
「自己」を自覚したものは、その実現のために困難な戦いをし続けるほかないからだ。ワイエスの絵はその苦闘を物語っているようだった。
2008年12月11日(Thu)
日蓮聖人、身延の日々
新たな作家に出会うのは楽しい。
それは松浦弥太郎の『くちぶえカタログ』。横に長い本だから、書店の棚で目に付いた。
そのうえ、表紙カバーに「はじめに」が記されている。
「ここ一年くらい前から物を買わなくなりました。(略) そんな風に物を買わなくなり今のところ何ひとつ不便はありません。(略) 今は自然災害、戦争、テロ、事件、政治経済への不信感、景気の不安定といった事が渦巻く毎日です。明日は何が起こるかわかりません。そんな暮らしの中、(略) 自分だけ飾ったり、自分だけ豊かになることは、いかに寂しく果てないと思うのは人として当たり前と思うのです。」
とあった。
ページをめくって、とはいってもページ数は印刷されていないが、「セーター」というところに「毛玉が好きだ。毛玉というのはセーターに出来る玉のことだ。」とあるのを読んでおもしろいと思い買った。
普通、セーターに毛玉が出来ると新しいものを買おうと考えるではないか。そう考えない著者に興味をいだいたのだった。
日蓮聖人が五十六歳のとき書かれた「庵室修復書」というお手紙がある。
四年ほど前に建てた庵室の壁がこわれて
「直すことなくて、夜、火をとぼさねども、月の光にて聖教を読みまいらせ、われと御経を巻きまいらせ候はねども風をのづから吹き返しまいらせ候」(定1411頁)
と記され、不自由のなかにも聖人の風流洒脱な心持がうかがえて、たいへん気に入っている一節である。
次いで、すっかりこわれてしまった庵室のなかに「月は住め、雨はとどまれ」とは、ご苦労された聖人には申し訳ないが、その表現の妙にすっかり頭を下げてしまう。物不足に負けない毅然とした心の香りがただよってくる。
こんなことを思いながら、かねて見たいと思っていたデンマークの画家・ハンマースホイの絵を見に上野・西洋美術館へ行った。
中間色のおさえた色調でほとんど何もない部屋が描かれた絵が並んでいた。
わたしがとくにいいなと思ったのは、1905年に描かれた「白い扉、あるいは開いた扉」と呼ばれる作品である。
暗い部屋に三枚の白い扉がある、ただそれだけの絵である。
「だれもいないのに美しい、ではなく、正確にはだれもいないから美しい」
と画家は語っていたそうだ。
でも、「だれもいないから美しい」ではすこしさびしい。
しかし、人間の際限もない物質の所有にたいする厳しい批判が伝わってくるようだ。
ハンマースホイの生きた時代からすでに100年、世界はほんとうに大きな曲がり角に来ているのではないか。
それは松浦弥太郎の『くちぶえカタログ』。横に長い本だから、書店の棚で目に付いた。
そのうえ、表紙カバーに「はじめに」が記されている。
「ここ一年くらい前から物を買わなくなりました。(略) そんな風に物を買わなくなり今のところ何ひとつ不便はありません。(略) 今は自然災害、戦争、テロ、事件、政治経済への不信感、景気の不安定といった事が渦巻く毎日です。明日は何が起こるかわかりません。そんな暮らしの中、(略) 自分だけ飾ったり、自分だけ豊かになることは、いかに寂しく果てないと思うのは人として当たり前と思うのです。」
とあった。
ページをめくって、とはいってもページ数は印刷されていないが、「セーター」というところに「毛玉が好きだ。毛玉というのはセーターに出来る玉のことだ。」とあるのを読んでおもしろいと思い買った。
普通、セーターに毛玉が出来ると新しいものを買おうと考えるではないか。そう考えない著者に興味をいだいたのだった。
日蓮聖人が五十六歳のとき書かれた「庵室修復書」というお手紙がある。
四年ほど前に建てた庵室の壁がこわれて
「直すことなくて、夜、火をとぼさねども、月の光にて聖教を読みまいらせ、われと御経を巻きまいらせ候はねども風をのづから吹き返しまいらせ候」(定1411頁)
と記され、不自由のなかにも聖人の風流洒脱な心持がうかがえて、たいへん気に入っている一節である。
次いで、すっかりこわれてしまった庵室のなかに「月は住め、雨はとどまれ」とは、ご苦労された聖人には申し訳ないが、その表現の妙にすっかり頭を下げてしまう。物不足に負けない毅然とした心の香りがただよってくる。
こんなことを思いながら、かねて見たいと思っていたデンマークの画家・ハンマースホイの絵を見に上野・西洋美術館へ行った。
中間色のおさえた色調でほとんど何もない部屋が描かれた絵が並んでいた。
わたしがとくにいいなと思ったのは、1905年に描かれた「白い扉、あるいは開いた扉」と呼ばれる作品である。
暗い部屋に三枚の白い扉がある、ただそれだけの絵である。
「だれもいないのに美しい、ではなく、正確にはだれもいないから美しい」
と画家は語っていたそうだ。
でも、「だれもいないから美しい」ではすこしさびしい。
しかし、人間の際限もない物質の所有にたいする厳しい批判が伝わってくるようだ。
ハンマースホイの生きた時代からすでに100年、世界はほんとうに大きな曲がり角に来ているのではないか。
2008年11月26日(Wed)
身延山の桜
脳科学者・茂木健一郎が『脳と仮想』(新潮文庫)のなかで、評論家・小林秀雄(1902〜83)の講演を絶賛していた。そのことが記憶に残っていたので、書店に小林秀雄の名講演選CDが付録についた文芸誌を買った。
買ったまま聞いていなかったが、思い出してドライヴしながら聞いた。聞いていると、小林秀雄がやや甲高い声で何回も何回も語っているのは、近代合理主義を身に着けたと自負し、絶対に正しいと信じている私たちの考えかたについてだ。
ちかごろは、じつに多くの事件が頻発する。評論家は「こんなことは信じられないできごとだ」と常に繰り返すが、信じられないできごとばかりが毎日起きる。だが、アウシュビッツの虐殺や原爆投下を平気で行なった人間だ。どんなことでもやりかねないのだ。平穏無事こそが奇跡のようなもので、それこそが信じられないありがたいことなのではなかろうか。
世の中はだんだんと良くなってゆくと信じたいのは人情だが、それは現代人がしがみついている迷信の一つかもしれない。一億人の日本人が物心両面でそこそこに恵まれていることこそ歴史上の珍事だと思ったほうがよいのではないか。
小林秀雄は桜が好きで花行脚をした。自宅に植えられていた枝垂桜は山梨県の清春白樺美術館に移植されているそうだ。その小林秀雄が最後まで見残した桜が身延山の枝垂桜だった。
亡くなった翌々年の春、夫人は遺影をもって身延山の桜を見に行ったという(新潮社『小林秀雄 美と出会う旅』)。
買ったまま聞いていなかったが、思い出してドライヴしながら聞いた。聞いていると、小林秀雄がやや甲高い声で何回も何回も語っているのは、近代合理主義を身に着けたと自負し、絶対に正しいと信じている私たちの考えかたについてだ。
ちかごろは、じつに多くの事件が頻発する。評論家は「こんなことは信じられないできごとだ」と常に繰り返すが、信じられないできごとばかりが毎日起きる。だが、アウシュビッツの虐殺や原爆投下を平気で行なった人間だ。どんなことでもやりかねないのだ。平穏無事こそが奇跡のようなもので、それこそが信じられないありがたいことなのではなかろうか。
世の中はだんだんと良くなってゆくと信じたいのは人情だが、それは現代人がしがみついている迷信の一つかもしれない。一億人の日本人が物心両面でそこそこに恵まれていることこそ歴史上の珍事だと思ったほうがよいのではないか。
小林秀雄は桜が好きで花行脚をした。自宅に植えられていた枝垂桜は山梨県の清春白樺美術館に移植されているそうだ。その小林秀雄が最後まで見残した桜が身延山の枝垂桜だった。
亡くなった翌々年の春、夫人は遺影をもって身延山の桜を見に行ったという(新潮社『小林秀雄 美と出会う旅』)。