2011年04月01日(Fri)
今月の聖語[平成二十三年四月]
平成二十三年四月の聖語をご紹介します。
=解説= 生きる誓願 日蓮聖人御遺文『開目抄』文永九年(一二七二年聖寿五十一歳)
この聖語は、日蓮聖人の三大誓願の第一です。三大誓願は、建長五年(一二五三)四月二十八日、立教開宗の日から聖人を支え続けたものです。それは、私たちを支える三大誓願でもあることを意味します。
しかし残念なことに、聖人と全く同じではありません。それは、ピアノの演奏と似ています。ピアノは誰が弾いても決まった音が出ます。しかし、弾く人の技量や魂によって、響きが変わり、意味に深みが増すのです。
それでは聖人は、どのような信仰をもって、このような誓願を立てられたのでしょうか? 「柱」とは、建造物の中心となるものです。と言うことは、一切の世間の過去・現在・未来の三世にわたって、必要不可欠な人間として生きると言う誓願であります。それは「真実を求め至誠を捧げよう」と訳されています。真実を求め至誠を捧げるとは、自己を大切にすることです。それはやがて、他者を微笑ませ、自己を幸せに導きます。これはすべての命を活かしきることです。
この聖人の誓願の中に私たちは生きているのです。
=解説= 生きる誓願 日蓮聖人御遺文『開目抄』文永九年(一二七二年聖寿五十一歳)
この聖語は、日蓮聖人の三大誓願の第一です。三大誓願は、建長五年(一二五三)四月二十八日、立教開宗の日から聖人を支え続けたものです。それは、私たちを支える三大誓願でもあることを意味します。
しかし残念なことに、聖人と全く同じではありません。それは、ピアノの演奏と似ています。ピアノは誰が弾いても決まった音が出ます。しかし、弾く人の技量や魂によって、響きが変わり、意味に深みが増すのです。
それでは聖人は、どのような信仰をもって、このような誓願を立てられたのでしょうか? 「柱」とは、建造物の中心となるものです。と言うことは、一切の世間の過去・現在・未来の三世にわたって、必要不可欠な人間として生きると言う誓願であります。それは「真実を求め至誠を捧げよう」と訳されています。真実を求め至誠を捧げるとは、自己を大切にすることです。それはやがて、他者を微笑ませ、自己を幸せに導きます。これはすべての命を活かしきることです。
この聖人の誓願の中に私たちは生きているのです。
2011年03月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十三年三月]
平成二十三年三月の聖語をご紹介します。
=解説=「凡夫成仏の不思議」建治二年(一二七六年聖寿五十五歳)
法華経の行者日蓮聖人は、法華経絶対を択一された法華経至上主義者であられる。その絶対の根拠は究極ただ一つ。法華経が、仏教の唯一で最大の目的である「凡夫を仏に成し給う」大法であるからであった。かかる法華経の秘妙さ絶妙さを日蓮聖人は「法華経の不思議」「法華経の御力」と言われ讃嘆されたのである。故に、法華経の文字、その全文、全文字の一字一字は、そのまま挙って仏のご本意・ご本懐すなわち衆生救済をあらわし告げるものである。つまりは、仏そのものであられる。要するに、肉眼・凡眼に見る黒い印字は、智慧の眼・慈しみの眼である仏眼には、変じてみ仏の本体・本質と映るのである。
その一大変化変質、つまり凡夫成仏の大転換、転凡(てんぼん)成聖(じょうしょう)・転凡(てんぼん)入聖(にっしょう)の不思議さを日蓮聖人は言葉に尽くして説き明かされるのである。「法華経の不思議もまた是の如し。凡夫を仏に成し給う。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり、山(やま)の芋(いも)は鰻(うなぎ)となる。世間の不思議以(もっ)て是(かく)の如し。何(いか)に況(いわん)や法華経の御力をや」と。蕪は野菜、鶉は鳥、また山芋と鰻。全然種族を異にするが形状は似る。だから実体はちがうが形が似ていれば誤って見られやすく、あり得ぬことも起こるように、そのようにものごとはよく変化するものであると。一字一仏、変じ転じて凡夫を仏となすことの譬話である。
=解説=「凡夫成仏の不思議」建治二年(一二七六年聖寿五十五歳)
法華経の行者日蓮聖人は、法華経絶対を択一された法華経至上主義者であられる。その絶対の根拠は究極ただ一つ。法華経が、仏教の唯一で最大の目的である「凡夫を仏に成し給う」大法であるからであった。かかる法華経の秘妙さ絶妙さを日蓮聖人は「法華経の不思議」「法華経の御力」と言われ讃嘆されたのである。故に、法華経の文字、その全文、全文字の一字一字は、そのまま挙って仏のご本意・ご本懐すなわち衆生救済をあらわし告げるものである。つまりは、仏そのものであられる。要するに、肉眼・凡眼に見る黒い印字は、智慧の眼・慈しみの眼である仏眼には、変じてみ仏の本体・本質と映るのである。
その一大変化変質、つまり凡夫成仏の大転換、転凡(てんぼん)成聖(じょうしょう)・転凡(てんぼん)入聖(にっしょう)の不思議さを日蓮聖人は言葉に尽くして説き明かされるのである。「法華経の不思議もまた是の如し。凡夫を仏に成し給う。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり、山(やま)の芋(いも)は鰻(うなぎ)となる。世間の不思議以(もっ)て是(かく)の如し。何(いか)に況(いわん)や法華経の御力をや」と。蕪は野菜、鶉は鳥、また山芋と鰻。全然種族を異にするが形状は似る。だから実体はちがうが形が似ていれば誤って見られやすく、あり得ぬことも起こるように、そのようにものごとはよく変化するものであると。一字一仏、変じ転じて凡夫を仏となすことの譬話である。
2011年02月01日(Tue)
今月の聖語[平成二十三年二月]
平成二十三年二月の聖語をご紹介します。
=解説=「至極の言葉」建治二年(一二七六年 聖寿五十五歳)
一生涯、賢明に事を処して波風おこすことなく、順調に人生をすごしてきた人でも、最後期のただ一言が仇となって身を亡ぼし、永年の功を台無しとしてしまうことがある。「九(きゅう)仞(じん)の功(こう)を一(いっ)簣(き)に欠(か)く」は口惜しいこと、重々心しなくてはならぬことである。
一言(いちげん)既(すで)に出(い)ずれば駟馬(しば)も追い難し、駟(し)も舌(した)に及ばず、なのである。だから、一言(いちげん)以て之を蔽(おお)う、そのような一言(いちごん)。一言(いちごん)の約、そのような重みのある言葉。男子の一言(いちごん)金鉄(きんてつ)の如し、であるべき発言。これらが求められよう。
言言(げんげん)肺腑(はいふ)を突く誠意と熱意の言葉。ひびき万雷(ばんらい)の切言(せつげん)。声涙(せいるい)倶(とも)に下る慈言(じげん)。対するに、言わずもがなの駄言(だげん)・放言(ほうげん)の類(るい)はよろしく禁制あるのみ。
同人宛ての別状に日蓮聖人は言われる。「千年のかるかや(苅茅)も一時にはい(灰)となる。百年の功も一言にやぶ(破)れ候は、法のことわり(理)なり」と。「法の理(ことわり)」に無知であっては破滅あるのみ。事事(ことごと)、理(ことわり)にはずれてはならぬのである。檀越池上氏宛て両状至言。二句の紹介。
=解説=「至極の言葉」建治二年(一二七六年 聖寿五十五歳)
一生涯、賢明に事を処して波風おこすことなく、順調に人生をすごしてきた人でも、最後期のただ一言が仇となって身を亡ぼし、永年の功を台無しとしてしまうことがある。「九(きゅう)仞(じん)の功(こう)を一(いっ)簣(き)に欠(か)く」は口惜しいこと、重々心しなくてはならぬことである。
一言(いちげん)既(すで)に出(い)ずれば駟馬(しば)も追い難し、駟(し)も舌(した)に及ばず、なのである。だから、一言(いちげん)以て之を蔽(おお)う、そのような一言(いちごん)。一言(いちごん)の約、そのような重みのある言葉。男子の一言(いちごん)金鉄(きんてつ)の如し、であるべき発言。これらが求められよう。
言言(げんげん)肺腑(はいふ)を突く誠意と熱意の言葉。ひびき万雷(ばんらい)の切言(せつげん)。声涙(せいるい)倶(とも)に下る慈言(じげん)。対するに、言わずもがなの駄言(だげん)・放言(ほうげん)の類(るい)はよろしく禁制あるのみ。
同人宛ての別状に日蓮聖人は言われる。「千年のかるかや(苅茅)も一時にはい(灰)となる。百年の功も一言にやぶ(破)れ候は、法のことわり(理)なり」と。「法の理(ことわり)」に無知であっては破滅あるのみ。事事(ことごと)、理(ことわり)にはずれてはならぬのである。檀越池上氏宛て両状至言。二句の紹介。